「本当に重要なことを見分けられるように」
フィリピ1:9-11
本日は東日本大震災を覚える礼拝を献げています。この礼拝の中で、三つのことをお分かちしたいと思います。一つ目は、あの震災の経験を、そして、東京電力福島第一原子力発電所事故の経験を、過去の出来事のように捕えてはならない…。ましてや風化させてはいけないということです。二つ目に思うのは、震災のこと、原発事故のことを思えば思うほど、いよいよもって、私たちはもっともっと聖書に聞かなければいけないのではないかということです。最後に三つ目のこととして思うのは、信仰者として、教会として、私たちにはなすべきことがあるのではないかということです。
そして、そんなことを思いながら、本日のフィリピ1:9-11の御言葉が心に迫ってきます。
「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(フィリピ1:9-11)
震災のことを覚えつつ、今の状況について色々と考えていく時、今、私たちは「知る力と見抜く力とを身に着け」「本当に重要なことを見分けられるように」なることができることが必要なのだと思います。目の前の一つ一つの事柄をちゃんと知り、ちゃんと見分けることが必要なのだと思うのです。そのために私たちは心に刻まなければいけないこと、忘れてはいけないことがあります。過去の過ぎ去った出来事のように、捕らえてはならないことがあるのだと思うのです。しかしながら、私たちは一つ一つの事柄に向き合う時、どんなふうにそれらと向き合うかが大切です。色々なことがある中で、本当に重要なことを見分けることができるようになることが必要なのだと思います。
本日の御言葉にはそのために「あなたがたの愛がますます豊かになる」必要があると語られています。愛を抱きながら、その視点に立って事柄を見上げようとしていく時、私たちは色々なことの中で、本当に重要なことを見分けることができるんだというのです。このことも大事なのだと思います。しかし、自分自身の経験として思います。私たちはいかに、この「愛」を見失ってしまう者なのかということです。肝心な時に、そういう視点を見失って、無責任な物言いになってしまったり、冷たい裁判官のように事柄を切り捨ててしまうようなことがあります。すぐに愛を見失ってしまう私がいることを思うのです。
そんな中、御言葉に立ち帰っていかなければいけないと思うのです。そこから始めていかないと、大切なことが分からなくなってしまうのだと思うのです。その中で、私たちが今できる一つ一つのことに向き合おうとしていく時、私たちはどこまでいっても足りない者であるかも知れませんが、それでも神様に赦され、執り成され、導かれながら、「清い者、とがめられるところのない者」「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受ける者」とされていくことができるのではないかと思うのです。