「人の子のため」
ルカによる福音書6章20-26節
「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」とあります。ここで言う弟子たちとは、いわゆる「12弟子」ではありません。17節にあるように、そこに集まっていた「大勢の弟子」と「おびただしい民衆」を指しています。
そしてそこに集まっている民衆は、ユダヤ全土や外国からはるばるやって来た人たちでした。人々は皆、癒されるために何とかしてイエス様に触れようとしたとあります。癒されたくて必死です。
それはつまり、その人たちが、癒されなければ人間らしく生きていけない人たちだということです。病を持っているが故に、また汚れた霊に取りつかれているが故に、一人の人間として生きることができないのです。それは単に病気を持っている人ということではなく、「貧しい人々」であり、「今飢えている人々」であり、「今泣いている人々」でした。そのような人々にイエス様は、「神の国はあなたがたのものだ」「あなたがたは満たされる」「あなたがたは笑うようになる」と語ります。
さらにイエス様は言います。「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」
「人の子のために」とあります。「人の子」という言い方は、イエス様が言い始めたものではなく、旧約聖書にも使われています。そしてそれは単純に「人」「人間」を意味します。おそらくこの時イエス様のもとに集っている人々のほとんどは、イエス様から話を直接聞くのは初めてだったでしょう。ですのでイエス様が「人の子のため」と言ったときに、多くの人は単純に、「人のため」という意味で聞いたはずです。つまり、「人」のため、「他者」のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである、というメッセージです。「人のため」ですので、積極的に隣人に寄り添い、虐げられている人々の味方になるということです。
そしてまさにイエス様が、「人(人の子)のため」に追い出され、ののしられ、汚名を着せられた人でした。弱い人に手を差し伸べ、嫌われている人と共に食事をし、人間性を奪われている人々を再度立ち上がらせ、人を人とするために生きた人でした。このイエス様と共に生きる私たちもまた、「人の子」のために生きることができるし、すでに人の子と共に生きる者とされているはずです。
確かにこの世界で生きる私たちには苦難があります。「人の子」を、まるで消耗品かのように使い捨てる権力者がいて、「人の子」をまるで害虫かのように虐殺するということが、この世界で行われています。しかしこんな世界だからこそ私たちは、人間とは見なされていない全ての者を「人の子」と呼び、「人の子」のために生きる一人でありたい。その結果、例え人々から憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられたとしても、その日には私たちは、喜び踊りましょう。「人の子」と共に生きていることを祝って、そして、今飢えている人々が満たされ、今泣いている人々が笑う神の国を先取りして、喜び踊りましょう! 神様は私たちを、そのような神の国に招いておられます。(安里神学生)