本日のローズンゲンの御言葉です。
「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」詩編118:24
「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」ルカ19:5-6
本日の箇所には、次のように記されています。
「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」
ザアカイの話は、子どもたちもよく知っている話だと思います。取税人の頭だったザアカイは、エリコの町にやって来たイエス様を一目見ようとします。しかし、背の低いザアカイは、たくさんの人に阻まれ、イエス様を見ることができなかったので、近くにあったいちじく桑の木に登って、イエス様を見ようとするのです。ザアカイとすれば、遠目でイエス様を見るだけで満足だったと思います。しかし、そのイエス様がザアカイのところに近づいてきてくださいました。そして、ザアカイに対し、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と語りかけたのです。ザアカイは本当に驚いたと思います。そして、嬉しかったと思います。ザアカイは、急いで降りてきて、イエス様を迎えたのでした。私は本日の箇所を読む時、いつも思うことがあります。それは、本日の箇所で、イエス様に出会い、イエス様からの呼びかけに驚き、喜びながら、イエス様のもとに降りてきたザアカイの姿が、「悔い改め」ということなんじゃないかということです。ザアカイはそれまで人を押しのけ、力でのし上がってきた人でした。結果、取税人のかしらにまで登り詰めました。でも、そんなふうに人を押しのけ、時にズルをしながら、人の上に立とうとする中で、周りからは嫌われ、意固地になり、孤立しているザアカイがいたのです。そんなザアカイを象徴する姿が、いちじく桑に登り、枝に必死にしがみつきながら、イエス様を見ようとする姿にも表れているのだと思います。そんなザアカイにイエス様の側が近づいてくださいました。そして、そのイエス様の呼びかけを通し、ザアカイは驚きと喜びの中、自分が登っていた木から素直に降りてきたのです。そして、そんなふうにいちじく桑から降りてきたザアカイは、大きく変えられていました。人を踏みつけ、搾取してまで財を築いてきたザアカイは変えられ、自分から「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカ19:8)と宣言する者にされていったのです。その姿を見る時に、「悔い改める」ってこういうことなんだなと思います。私たちに近づいてきてくださったイエス様との出会いを通し、驚き、喜びながら、それまで自分が登りつめ、そこから降りてこなかったような場所から降りてきて、イエス様を心からお迎えする…。そのようにして、それまでとは違う新たな生き方に変えられていく…。それが「悔い改める」ってことなんだと思うのです。
今朝、テレビを観ていたところ、ウクライナ戦争についての様々なニュースがなされていました。その中で、プーチンについて、こんなことが言われていました。
「この戦争はプーチンが始めたもので、終わらすのは最終的にプーチンしか決められない。しかし、プーチンはやめるにやめられない状況にあるのだと思う。ここでやめたら、敗北や失敗を認めることになる。それはできない。そんな中、さらになりふり構わないような戦い方になるのではないかと危惧する。」
コメントを聞きながら、何とも言えない思いにさせられました。そんな中、思い浮かべたのは、いちじく桑の木の上に登ったザアカイの姿でした。もともと大義もない形で侵攻がなされ、その侵攻がこれだけ上手くいかなくても、いまさらやめることができなくなってしまっている…。その姿が、本日のザアカイのようにいちじく桑の木に登ったのですが、「もう降りてきたほうがいいですよ」と周りがいくら声をかけても、意地でもいちじく桑の木から降りてこない…。そのような姿に重なって思えたのです。そして、私たちというのは、時にそんなふうになってしまうことがあるんだなと思いました。降りていくべきだということが本当は分かっていながら、それができない…。そんなふうに意固地になってしまうことがあるのだも思うのです。私自身の中にも、そんなふうに意固地で頑なな自分がいるのだと思います。そんな自分を思いながら、本日の箇所に心砕かれ、ザアカイがイエス様の呼びかけに素直に聞き、いちじく桑から降りてきたように、イエス様からの「降りて来なさい」という言葉には応えることができる者とされていきたいと思わされました。何より、ウクライナに一日も早く平和が訪れることを祈ります。