「エサウという人」

創世記36章1-43節

 私たちはこれまでエサウについての様々な記述を読み進めてきました。そんな色々な記述を読み進めてきて思うのは、エサウという人は、ヤコブからみれば、本当に関わりが悩ましい人だったんじゃないかということです。ヤコブとエサウは何もかもが違っていました。創世記25:27には「エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」と書かれています。そんなふうに、エサウは狩人として勇ましく野を駆け巡っていました。これに対し、ヤコブは天幕の周りで羊を養ったり、料理をしたりしていました。そんなエサウとヤコブでは、生活スタイルも違っていましたし、性格も違っていました。その他、考え方、価値観も違っていたと思います。その中でも悩ましかったのは、信仰に対する向き合い方でした。このこともエサウとヤコブとは大きく異なっていたのだと思います。私たちもそういうことって、あるんじゃないでしょうか。生活スタイルも違うし、性格も違う…。物事に対する考え方、価値観も違う…。何より、私たちが大切にしているもの、信じているものの根本的なところが違っている…。そういうことってあるのではないかと思うのです。そういう相手と関わり、共に生きていかなければいけないということは、悩ましいことも多いのではないかと思います。ヤコブにとって、エサウはそうだったんだろうなと思います。しかし、ヤコブとエサウの記述を読んでいく時、思わされることがあります。ヤコブにとって、エサウとの関わりは時々に難しさを感じたり、悩んだり、葛藤や、ジレンマというものを通らされたかも知れません。おそらく、ヤコブにしてみれば、エサウとの関わりの中で、どこまでも行っても分かりあえないなと思うことや通じあえない部分を感じたりしていたのではないかと思います。しかし、創世記には、そういうヤコブとエサウを神様が、お互いの思いを越えて取り扱ってくださったということが記されているのです。そして、神様は、二人の思いを越えた形で、二人を取り扱い、導き、時に仲たがいをしてしまった二人をも和解へと導いてくださったのです。

本日の箇所には「エサウは、妻、息子、娘、家で働くすべての人々、家畜の群れ、すべての動物を連れ、カナンの土地で手に入れた全財産を携え、弟ヤコブのところから離れてほかの土地へ出て行った」(36:6)と記されています。ここでエサウは自ら、ヤコブにカナンの地を譲るために他の場所に移っていったというのです。何でこういうことになったのか、この間、何があったのかについては何も書かれていません。しかし、私はこの記述を読みながら、つくづく、人の思いを越えた、神様の取り扱いを思います。これまでのエサウでしたら、「何で俺がヤコブのためにカナンの地を出ていかなければいけないんだ。あいつは長子の権利も奪って、祝福も奪って、しまいにはカナンの地さえも奪うのか。もう許せない」と怒りまくる姿を想像できるのではないでしょうか。しかし、本日の箇所で、エサウは自らヤコブのためにカナンの地を出て行きました。そのように導かれたのは、ただただ神様だなと思うのです。私たちはひたすらに、この神様を見上げていきたいと思います。

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