「ヤコブの家族の由来」

創世記37章1-4節

 創世記37章を読み進めるにあたって、まず確認したいことがあります。聖書はこの箇所の冒頭に「ヤコブの家族の由来は次のとおりである」(37:2)と書き記していることです。この箇所はよく「ヨセフ物語」と読まれることも多い箇所なのではないでしょうか。しかし、聖書は37:2で、聖書はここから始まる話を「ヨセフの話なんだ」と言わず、「ヤコブの家族の話なんだよ」と語っているのです。このことは重要だと思います。私たちがこれから読む記述を「ヨセフの物語」として読むか、「ヤコブの家族の物語」として読むのか、読み方でずいぶん変わってくると思うのです。私たちがこの物語を「ヨセフの物語」として読むなら、この一連の記述の中で「ヨセフの成功物語」の箇所にだけ注目するかも知れません。ですが、それは聖書が語ろうとしている話の一部分でしかないのです。聖書がこの一連の記述を通して語ろうとしているのは、ヨセフを含め、ヤコブの家族の話なのです。このことはとても大事な視点です。

 なぜそのような話をするのかと言いますと、このヤコブの息子たち12人は、やがて、イスラエルの12部族となっていくからです。そして、それは神の民と呼ばれるようになっていきます。そのようにヤコブの家族というのは、神の民の一番のルーツと言いますか、原型です。そして、その神の民というメッセージは、やがて新約聖書で「キリストの教会」に受け継がれていきます。つまり、私たちです。そのように考える時、ヤコブの家族の物語というのは、私たち教会の物語に繋がっているものであるのです。「ヨセフ一人の話」というふうに読むのではなく、「ヤコブの家族の話」として読んでいく時、私たちはそのようなメッセージを受けることができるのです。

 そして、そんなふうに神の民の話として、この話を読み進めていく時、いきなり突き付けられることがあります。神の民となるはずのヤコブの家族は最初から問題だらけだったと語られているのです。ヤコブは12人の息子たちのうち、ヨセフを特別に可愛がりました。このことがヨセフの兄弟たちの反発を招くことになります。ヨセフの兄弟たちのフラストレーションは抑えきれないものとなってしまいました。そして、ヨセフの兄弟たちは、ヨセフと穏やかに話すこともできなくなってしまったのです。

 そのようにヤコブの家族は最初から問題だらけでした。兄弟たちは互いに傷つき、憎み、まともに言葉を交わすこともできなくなってしまっていたのです。これが神の民なの?と思ってしまいます。しかしながら、そこに大事なメッセージがあるんじゃないかとも思います。彼らが素晴らしいから、立派だから、神の民なのではないんだなと思うのです。むしろ足りない者同士、欠けた者同士の集まりである彼らを神様が憐れんでくださって、導いてくださって、彼らは神の民とされていったのです。そして、それというのは、私たちの教会もそうなんだろうなと思います。私たち一人一人は足りない者同士ですが、そんな私たちをイエス様が憐れんでくださって、私たちはキリストの体としての教会にされているのです。

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