「『それでも』の世界」

マルコ16:1-8

日曜日の朝早く、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメたちは、イエス様が葬られている墓へと向かいました。葬られたイエス様の身体に香油を塗るためです。墓に向かう途中、「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合って」(16:3)ました。イエス様を埋葬した墓は、入り口を大きな石で塞いでいました。ですから、墓に入って、イエス様のなきがらに油を塗るためには、その石をどかさなければなりませんでした。石をどける作業は、女性ではとてもできないのです。そんな彼女たちの姿を見ながら、何とも言えない思いにさせられました。まず思ったのは、彼女たちはイエス様のことが本当に大好きだったんだろうなということでした。イエス様のためにとにかく何かをしてあげたかったんだろうなと思います。これまでずっとそういう思いだったのではないでしょうか。そういう思いでイエス様に付き従ってきたのだと思います。しかしながら、十字架のただ中で、そういうことができない現実を突き付けられました。十字架に向かうイエス様の傍らで「本当だったら、こうしてあげたい」と思いながらも、目の前に起こっていることをただただ傍観しているほかなかったのです。そんな彼女たちが、イエス様が死なれた後、「せめて自分たちにできることを」という思いで香油を塗りに出かけていったのです。しかし、今にいたっても、実際に何ができるか分かりませんでした。現実の状況を冷静に考えてみた時、墓に行ったって、そこは石でふさがっていて、イエス様に油を塗ることなんてできない状況も考えられたのです。墓に行ったことが全くの無駄で終わってしまうかも知れませんでした。しかし、彼女たちは「それでも自分たちにできることを」という思いで出かけていったのです。そんな彼女たちの姿を見ながら、私たちもそういう思いを通らされることがあるかも知れないと思うのです。

特にこの二年間はそんな思いばかり通らされてきたのだと思います。コロナの状況の中で、感染症予防のための対応など、できる限りのことをしてきましたが、常に自分たちがしていることが徒労に終わってしまうかも知れないという思いを抱えながら歩んできました。それというのは本日の箇所で墓に向かう婦人たちと重なってくるのではないでしょうか。心には色々な思いがあって「あれもしたい」「これもしたい」と思うのですが、現実的な状況としてはできることが本当に限られているのです。必死に考えながら、今、自分たちができることをしているつもりなのですが、状況としてはそのことでさえ、成し遂げられるか分からない…。そんな状況の中で「それでも」という思いで今、自分たちにできることをしてきた二年間だったと思います。

婦人たちは墓に出かけていきました。すると、すでにその墓石はわきへ転がしてあったと記されています。それはまさに神様の御業でした。彼女たちではどうにもならなかった部分を、神様が拓いてくださり、彼女たちが自分たちの働きをすることができるようにと導いてくださったのです。この記述を読む時、私たちの二年間もまさにそうだったなと思います。

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