「兄たちを探しているのです」
創世記37章12-17節
本日の箇所には、父ヤコブから遣わされたヨセフが、お兄さんたちを探してあちこちを回った様子が記されています。この箇所を読む時、ヨセフがお兄さんたちを見つけるために本当に苦労をしたことが分かります。しかし、そんなふうに苦労したにも関わらず、ヨセフはお兄さんたちからひどい目に遭わされてしまうのです。そんなヨセフを思う時、本日の箇所を読みながら「ヨセフ、こんなことしなければよかったんじゃないの?」と思ったりします。しかしながら、その一方で思います。これまで、私たちは、ご一緒にヤコブの家族について考えてきましたが、この時、ヨセフとヨセフの兄弟たちとの関係は本当に深刻でした。ヨセフの兄弟たちは、同じ家族であるにも関わらず、ヨセフを憎み、ヨセフに対して穏やかに言葉をかけることもできないような状態になっていたのです。その原因は、明らかでした。ヤコブがヨセフを特別に可愛がっていたがゆえに、兄たちはヨセフのことを恨むようになっていたのです。
ヤコブの家族の問題は、ヤコブがヨセフを特別に可愛がったからでしたが、それというのは、ヤコブがヨセフを可愛がったこと自体が問題だったわけではないと思います。そうではなくて、ヤコブがヨセフだけを愛していたことが問題だったと思うのです。もしヤコブがヨセフを可愛がったように、他の兄弟たちにも思いを向けることができていたら、状況は違っていたのだと思うのです。そして、そんなことを考えさせられながら、本日の箇所について思うのです。本日の箇所に記されていることというのは、ヤコブがヨセフの兄たちの様子を心配して、兄たちが元気にやっているかということを確かめるためにヨセフを遣わしたということでした。何というのでしょう。このことというのは、言うなれば、これまでヨセフのことばかりしてきたヤコブが、ようやく兄たちのことに思いを向けようとした…。そういう出来事として、捉えることができるんじゃないかと思うのです。そして、そんなふうに思います時に、先ほどのように、こんなことしなければ良かったのにと思う思いが立ち止まらされるのです。むしろ、ようやく、ヨセフだけではなく、兄たちのことも心にかけてくれたのか…。良かった…。そんなふうに捉えることができるような出来事なのかも知れないと思うのです。結果としては、残念なことになってしまったかも知れません。しかし、そのようにヤコブがヨセフを遣わそうとしたことについては間違ってなかったんじゃないかと思いますし、むしろ、大事なことだったんじゃないかと思うのです。
そして、最初はこのような始まりだったかも知れませんが、決して、これで終わりではありませんでした。むしろ、ここから神の御業が始まっていったのです。ヤコブや、ヨセフ、ヨセフの兄弟たちの思いをはるかに超えた神の取り扱いの業がここから始まっていったのです。私たちの歩みでも、時に、これまで私たちが目を向けてこなかった問題に向きあおうとすることで、これまで蓋をされてきた問題が一気に噴出するということがあるかも知れません。しかし、そこから様々な取り扱いが始まっていくということがあるのだと思います。