本日のローズンゲンの御言葉です。
「天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。」イザヤ55:9
「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」1コリント13:9-10
昨日は、K姉の葬儀に出席しました。昨日の御言葉メールでも書きましたが、K姉は現在、福岡西部教会の教会員となっていますが、長らく姪浜教会を支えてくださっていた方です。もともと西南学院教会で受浸され、その後、姪浜教会の開拓伝道を始められました。それから、連盟の全国拠点開拓伝道として始まった福岡西部教会の開拓伝道に関わるために、福岡西部教会に行かれたのです。今回、K姉の故人略歴を見て、知らされたのですが、K姉が姪浜教会の開拓伝道を始められたのは、K姉が23歳の時でした。会社で会計事務の仕事をされていたK姉は、姪浜教会の開拓当時から丁寧な事務作業をされていました。現在も膨大な段ボールの箱にその事務作業の記録が残っています。以前、教会の資料を整理したり、処分する必要があるのではないかという話が出たことがあります。そんな中、段ボールを開けてみたことがあるのですが、その中の資料があまりに細かく丁寧に処理している様子に「これは処分できないね」と話し合ったことがあります。そんなふうに、K姉は、事務作業の仕方を見ても、K姉の祈りや信仰をひしひし感じるような方でした。昨日の葬儀では、司式をされた麦野牧師や、弔辞をされたI姉が、K姉のことを語っていました。そんな中、お二人ともお話になっていたのは、K姉が口癖のように「感謝やね」ということをおっしゃっていたということでした。何かある度に「感謝やね」とおっしゃっていたというのです。
本日の箇所には次のように記されています。
「天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。」
本日の御言葉を読みながら、昨日のK姉の葬儀のことを思い出しました。昨日の葬儀の中で取り上げられた御言葉は伝道の書3:11でした。
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道の書3:11口語訳)
この言葉から麦野牧師がメッセージを語っておられました。
「この御言葉には、私たちには神から永遠を思う思いを授けられたことが記されています。しかし、そのような思いが与えられつつも、その永遠を見きわめることができないことも記されています。そんなふうに、永遠を思いつつ、自分には分からないという限界を噛みしめていく中で、私たちの信仰があるのだと思います。」
そのようなことをおっしゃっていました。K姉もそのような信仰を生きつつ、自分には分からない部分を神様に委ねながら、一つ一つのことに神様の恵みと導きを覚え、「感謝やね」と噛みしめていった…。そのような信仰を歩まれたのではないかと思います。