「命をあきらめない」

創世記38章1-30節

本日の箇所には、ユダが自分の兄弟たちと別れて生活を始めた様子が記されています。これまでの聖書の流れを振り返ってみる時、その理由を推測することができるんじゃないでしょうか。創世記37章には、ヨセフが兄弟たちによって酷い目に遭わされ、エジプトに奴隷として売られてしまうという出来事が記されています。この一連の出来事が、ユダにとって、兄弟たちと別れて生活を始める大きな原因となったのではないでしょうか。ユダは、ヨセフの一連の出来事を通して、家族との関係に傷つき、躓いて、「もう嫌だ」という思いにさせられたんじゃないかと思うのです。

その後、ユダはカナン人のシュアという女性と出会い、結婚し、新しい家庭を築きました。ユダにしてみれば、この女性と新しい家庭を築いて、自分が理想する家族を作っていきたいという思いだったんじゃないでしょうか。しかし、ユダに与えられた三人の息子の関係は最悪でした。長男のエルは、神様の怒りを買うほどに、御心に反するような歩みをし、死んでしまいました。その後、弟のオナンがエルの妻であったタマルと結婚するのですが、オナンは、兄のために子どもをもうけることをしたくないと考えるのです。それほどに兄を嫌っていたのでした。結果、オナンも死んでしまうのです。一連の記述を読む時、本当に皮肉だなと思います。ユダが自分の息子たちの問題に気づかないまま、どうしたかと言いますと、やるせない悲しみをタマルのせいにしてしまいます。息子たちが亡くなったのはタマルのせいだ…。そのように考えたユダは、三番目の弟であるシェラをタマルから遠ざけてしまうのです。その結果、タマルは自分の父の家に帰ることになったのでした。

本日の一連の記述を見る時、ある意味、ユダという人は、本当に真面目で正しさを求めていた人だったのではないかと思います。それゆえ、兄弟たちの中で、ヨセフだけを特別扱いする父ヤコブに傷ついていたのではないでしょうか。そして、兄弟たちにも躓いたのだと思うのです。その後も、ユダはユダなりに正しさを追い求めてきたのではないでしょうか。ただその結果、ユダは周りの人たちの振る舞いに躓いてばかり、裁いてばかりでした。タマルの妊娠が発覚した時に「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ」(38:24)と激怒するユダの姿など、まさにそうなんじゃないかと思うのです。しかし、思うのです。本当にユダは正しかったのでしょうか。よくよく考えてみれば、自分にも同じような問題を抱えていました。ユダ自身が誰かを傷つけたり、悲しませたりしているのです。でも、そのようなことにはユダは気づいていませんでしたし、認めることもありませんでした。ますます自分の正しさに固執し、心がせまくなり、周りを受け入れられず、自分の行き場を失ってしまっているのではないかと思うのです。そして、そういうユダの姿が「時々の自分かも知れない」と思います。自分なりに正しさを追い求めるがゆえに、人の間違いや過ちに躓いたり、裁いたりしているのですが、よくよく考える時、自分にも同じような問題がある…。でも、そういうことに気づかないし、認めることもできないことがあるのではないかと思うのです。

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