本日のローズンゲンの御言葉です。


「わたしの罪悪は頭を越えるほどになり/耐え難い重荷となっています。」詩編38:5
「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」コロ2:14


昨日、九州バプテスト神学校の講義があり、そこで1コリント4:3-5の御言葉について話し合いました。
「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。」(Ⅰコリント4:3-5)

この御言葉を読みながら、特に「大事だよね」と話し合ったのは「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」という言葉でした。私たちは時に「自分で自分を裁こうとしてしまっていること」があるんじゃないでしょうか。

現在、私たちは教会学校で使徒言行録を読み進めています。それを読んでいても、パウロの福音宣教がトラブル続きだったことを思います。どこに行っても、パウロは批判され、周りから責められてしまいました。ただ、まっすぐに神様から託された福音を語っているだけなのに、周りからその都度、反発されたり、色々なことを言われてしまう…。そのことにパウロはしんどい思いをすることもあったのではないでしょうか。私だったら、周りの声にそれまでの確信が揺らぎそうになったり、自分のしていることが「本当にこれでいいんだろうか」と思ってしまったりするかも知れないと思います。

そんなことを思いながら、パウロが語った「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」という言葉が心に迫ってきます。パウロはここで一貫して、自分を最終的に裁くのは主なんだと宣言するのです。そして、その主に全てのことを任せるのです。自分のしていることが何なのか、本当にそれが正しいのか、間違っているのか、自分としては精一杯やっているつもりだけれど、突き詰めて考える時に分からなくなってしまうこともあったかも知れません。そんな中、主が全てを知っておられる、分かっておられる、主は私の過ちも、間違いもぜんぶお見通しで、他の人には分かってもらえないような苦悩も悲しみも主は分かっておられると信じているのです。そして、自分で自分のことをあれこれと考えるのではなく、全てをご存じの方に全て明け渡しながら、その主が自分をどう見ておられて、どう判断されるかに全てを任せている様子が1コリント4:3-5の御言葉には、現われているのだと思います。牧会学で、このパウロの信仰の姿から教えられていきたいし、パウロのように主を指し示していきたいということを話し合いました。本日の箇所には、次のように記されています。
「わたしの罪悪は頭を越えるほどになり/耐え難い重荷となっています。」
本日の御言葉を読みながら、昨日の牧会学を思い出しました。この詩人は、自分の中にある過ち、失敗、罪について考えながら、本当に耐えられない思いにさせられていました。そんな中、詩人は自分で自分を裁いていたのだと思います。私たちもこの詩人と同様、自分で自分を裁いたり、責めたりしてしまうことがあるかも知れません。

そんな中、改めて、1コリント4:3-5の御言葉にあるパウロの信仰を心に刻んでいきたいと思います。主は私たちのすべてをご存じです。私たちの罪悪も、私たちがそれを自覚する前からご存じで、主は私たちを御許へと招いてくださっています。私たちに「恐れるな」と呼びかけ、私たちと共にいてくださることを宣言してくださっているのです。そして、私たちの罪の贖いとして、主は十字架へと向かわれたのです。その主に私たち自身を明け渡していきたいと思います。そこから私たちの信仰の歩みは始まっていくのだと思います。(鈴木牧人)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Translate »