「ポティファルの家での出来事」

創世記39章6-20節

本日の箇所はエジプト人ポティファルの家で起こった出来事です。本日の箇所を読みながら、色々なことを考えさせられます。本日の出来事が起こるそもそもの原因というのは、ポティファル自身にもあったのだと思います。ポティファルがヨセフにすべてを任せて、家のことに全く気を遣ってこなかったことが、本日の出来事を引き起こす要因の一つになったのだと思います。また事件が起きた後、「もう少し、ヨセフの言い分を聞いてくれたら良かったのに」とも思います。ポティファルは、これまであんなにヨセフを信頼してきたんじゃないでしょうか。ヨセフはその信頼に応えてきたのだと思いますし、ポティファルはヨセフのおかげでたくさんの祝福を受けてきたのだと思います。にもかかわらず、ヨセフの言い分を聞いている様子もなく、ヨセフを一方的に悪いと決めつけ、ヨセフを牢獄に入れてしまうのです。そんなふうに本日の箇所でポティファルに対して、色々と思うことがあります。しかし、ポティファルからすれば、「これまで散々目をかけて、信頼してやってヨセフに裏切られた。赦せない」という思いだったのだろうなとも思うのです。ポティファルの妻に対しても思います。本日の箇所で、彼女がしていることに対して、本当にとんでもないことです。ですが、ポティファルの妻の中には、ヨセフに対して、赦せないという思いがあったんじゃないかと思います。自分があんなに誘っているのに、それを断り続けていることに対して、面白くありませんし、恥をかかされているという思いもあったのではないでしょうか。そういう積もり積もったフラストレーションから、こんなふうにヨセフを陥れようとしたんじゃないかと思ったりするのです。とは言え、やはり、ポティファルや、ポティファルの妻がしていることというのは、「身勝手なこと」でした。そして、そんな彼らの「身勝手さ」にヨセフは散々振り回され、酷い目に遭わされてしまったのです。

そんなことを考えながら、改めて、思わされたのは、「神の義」についてです。以前、ある方が「『神の義』という言葉を聞くと、何となく身構えてしまう」とおっしゃっていました。「神様が正義をなさるという時に、神様が厳しい方だという印象をもってしまって、身構えてしまう」というのです。確かにそういう思いも分からなくもないなと思います。しかし、本日の箇所などを読む時、「私たちの神様が正義をなされる方だ」ということは、本当に大切なことだと思うのです。もし本日の箇所でポティファルの妻の言い分がまかり通りヨセフが酷い目に遭わされているように、私たちの生きる世界で、本当のことがゆがめられ、正義がなおざりにされるなら、大変なことになってしまうのではないでしょうか。ヨセフのように社会的に立場の弱い人たちが、声も挙げられないまま、力の強い者たちの都合に振り回され、踏みつけられてしまうのだと思うのです。私たちは、その様子を「それでいい」とは思えないのだと思います。私たちは神様が正義をなされることを欲しているのだと思いますし、その神様を信じることは私たちにとって希望と慰めなのだと思うのです。

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