「つながれているけれど、つながれていない」

創世記39章21-23節

本日のメッセージ題を「つながれているけれど、つながれていない」としました。本日、このメッセージ題についてご一緒に考えたいと思います。まず思うのは、私たちの実際の歩みを考えます時、むしろ逆に思えることのほうが多いかも知れないと思うのです。「つながれているけれど、つながれていない」ではなく、「つながれていないけれど、つながれている」そんなふうに思うことがあるのではないでしょうか。私たちは別に何かにつながれているわけではないのだと思います。それなのに、何かつながれているような思いにさせられてしまっていることはないかと思うのです。先ほどからお話ししているような、私たちを取り囲む現在の「生きづらさ」だったり、「閉塞感」だったり、「不安」なんかを考えてみる時、そのような思いにさせられたりするのではないでしょうか。

ヨセフは、エジプトに奴隷として連れてこられ、エジプト人ポティファルの家で仕えることになりました。エジプトに来るまでも、ヨセフは散々な目に遭ってきましたが、それでもめげることなく、ポティファルの家で忠実に仕えました。やがて、ヨセフの働きは主人ポティファルに認められていくようになっていき、家のものすべてをポティファルから託されるようになっていくのです。しかし、そんなヨセフをとんでもない事件が襲います。ヨセフを気に入ったポティファルの妻が、ヨセフを誘惑し、ヨセフがそれを拒むと、今度は「ヨセフがわたしを襲った」と訴えてきたのです。全くもって身に覚えがない言いがかりでしたが、ヨセフは捕らえられ、牢獄につながれてしまうのです。そんなヨセフの姿を思う時、ヨセフを取り囲んでいる現実には、私たちには想像もつかないような生きづらさや閉塞感、不安があったんじゃないかと思います。しかし、本日の記述を読む時、そんな印象とは違う印象を持ちます。牢獄に捕らえられ、大変だったとは思いますが、ヨセフはそのような状況の中にあっても、神様の恵みと計らいで、色々なことをうまくやっているのです。そんなヨセフの姿に現実の状況としては様々なものにがんじがらめにされてしまっているように思えるのですが、そのようなものでは縛ることができない豊かさを感じたり、たくましさや、自由を感じたりするのです。そんな中、「つながれているけれど、つながれていない」という言葉が湧き上がってくるのです。ヨセフは何故、そのように歩むことができたのでしょうか。色々言えるかも知れません。しかし、ヨセフはこの状況の中で、見ているものが他の人と違っていたんじゃないかと思います。今の状況だけを見ていなかったのではないでしょうか。今のこの現実を見ながらも、そんな自分と主が共にいてくださっている…。そして、主が今も生きて働き、歩みを取り扱ってくださっている…。その主に励まされた、力づけられ、希望を見出しながら歩んでいたのではないかと思うのです。その中で、ヨセフは牢獄につながれてしまっているような状況の中にあっても、どこかそういうのでは計れない、縛ることができない、豊かさやたくましさ、自由に生きることができたのではないでしょうか。「つながれているんだけれど、つながれていない」歩みに生きることができたのだと思うのです。

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