「剣を打ち直して」
イザヤ2章1-5節
本日の箇所には、「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2:4)と書かれています。「剣」や「槍」と言った、いわゆる武器を打ち直して、「鋤」や「鎌」と言った農工具、いわゆる平和のための道具にしていく様子が記されています。私はこの御言葉を読む時、いつも思うことがあります。それは、私たちの実際の世界では、しばしばこれと逆のことが起こっているんじゃないかということです。「鋤」や「鎌」などの、本来、平和のために用いられていた道具が徴収されてしまい、「剣」や「槍」と言った戦いのために武器に打ち直されてしまう…。そういうことが起こっているのではないでしょうか。そんなことを思いながら、本日、ご一緒に考えていきたいと思うことは、私たちには、大切な務め、役割があるということです。「鋤」や「鎌」が、「剣」や「槍」に打ち直されてしまわないように、私たちは大切な務め、役割があるのです。そして、そのためにまず何ができるだろうということを考えていきたいと思うのです。色々なことが言えるかも知れません。しかし、まず思うのは、「鋤」や「鎌」が、「剣」や「槍」に打ち直されてしまっていったような歴史が私たちに訴えていることを、きちんと聞き取り、私たちなりに受け止め、そこから学び、考えようとしていくことなのだと思います。本日の礼拝では礼拝堂の入り口に「沖縄戦新聞」というものを置いています。沖縄戦が起こった当時、その様子を伝える新聞があったとしたら、きっとこういう内容を伝えていたんじゃないかということが書かれている新聞です。この新聞を読んでいただくと、沖縄戦の様子というものを少しでも知ることができるのではないかと思います。もしお時間があれば、あの新聞を読んでいただけたらと思います。その新聞を読んで、沖縄戦の歴史が訴えていることを、私たちが少しでも受け止め、そこから学び、考えていくことができたらと思うのです。
私が学生時代、教会の伝道旅行で沖縄を訪れた時のことです。ひめゆり記念館を訪れました。私は幾人かの教会員とその記念館を訪ねて、当時の様子を学びました。その資料などを見ながら、私としては、色々思うことがあったのですが、一緒に記念館を訪れたHさんという女性が、記念館を出た後に涙をボロボロと流しておられました。そして「本当に申し訳ない」と言っていたのです。私はHさんがそんなふうに泣いておられる姿を始めてみたので驚きました。Hさんは、第二次世界大戦の時、ちょうどこのひめゆり学徒隊と同じ頃か、少し下の年齢だったと思います。それゆえ、特別に思うところがあったのではないでしょうか。ただ、その時の私には正直、Hさんがそんなにまで泣いていることも、「申し訳ない」と言っていることの意味もよく分かっていませんでした。ただよく分からないからこそ、なおさら、その姿が印象的でした。それが色々なことを考えるきっかけとなりました。あれから色々なことを学ぶ機会が与えられ、あの時に比べたら、多少なりとも意味が理解できているのだと思います。ですが、まだまだ分かっていないんだろうなとも思います。しかし、それでも、私なりに思いを巡らし、学んでいくことが大切なのだと思うのです。