「ファラオが見た夢」
創世記41章1-8節
本日の箇所には、ファラオが夢を見たということが記されています。本日の箇所を読みながら思うのは、創世記40章に記されているファラオの給仕役、料理役が見た夢の記述です。ファラオに仕えていた給仕役と料理役が夢を見ました。その夢には本日の箇所と同様に特別な意味が隠されていました。給仕役も料理役も、これがただの夢ではないということは感じたのですが、その意味は全く分かりませんでした。そんな中、二人はそれぞれふさぎ込み、憂うつな顔をしていたというのです。
そのように、この創世記40:6-7には、本日のファラオの姿と全く同じような様子が書かれているのですが、その二つの箇所を比べて読みながら、思うことがあります。それは、給仕役、料理役、そして、ファラオはお互いに、お互いの立場も、置かれた状況も全く違っていたということです。40:6-7に記されている給仕役、料理役は、牢獄の中にいました。しかも、二人はこの時、明日さえ生きていられるか分からない…。そんな不安定な日々を生きていたのです。それに比べてファラオは、この国の絶対権力者でした。何でも自分の思い通りになる…。そういう立場にいたのだと思います。そんなことを思う時、ファラオと、給仕役、料理役…。立場も、置かれている状況も全く違っていたということを思うのです。ですが、そんなファラオ、給仕役、料理役であるにも関わらず、夢を見た後には同じように、心騒がせて、不安な思いでいっぱいになっているのです。そんな彼らを見ながら思います。たとえ、立場が違っても、置かれている状況が違っても、変わらないんだな…。どんな立場であっても、どんな状況に置かれても、人は誰しも、不安や恐れというものを抱えているし、時に目の前の問題に、頭を抱え、ふさぎ込んだり、心騒がせたりしている…。そんなふうに思うのです。牢獄にいる給仕役や料理役からしてみれば、ファラオがそんなふうになっているなんて、想像もつかないことかも知れません。牢獄の彼らから見れば、絶対権力者として、全てが思い通りになり、恐れるものなんか、何もないように思えるかも知れません。しかし、ファラオは、ファラオなりに不安や恐れを抱えていました。この国の統治者として、他の人には分からないような思いを抱えていたのだと思います。そんなふうに、私たちは、みんな、変わらないんだなと思うのです。
私たちも、給仕役や料理役、ファラオと同じように、私たちがそれぞれ置かれた状況で、不安を抱えたり、恐れを抱えたりしながら歩んでいるのではないでしょうか。立場や置かれた状況が違っていたとしても、みんなそうなのだと思います。ですが、そういう不安や恐れの中でこそ、私たちは神様の特別な取り扱い、神様との出会いを経験させられるということがあるのです。不安や恐れのただ中で、私たちはそれぞれ、私たちにとって大切な神様からの御言葉のメッセージに出会い、その御言葉の解き明かしに出会い、そして、その御言葉が本当だということを知らされる経験をしていくということがあるのです。