「神が幸いを告げられるのです」

創世記41章9-16節

ファラオが見た夢について、国中の魔術師や賢者が、その意味を解き明かそうとしました。しかし、誰も解き明かすことができませんでした。その時、給仕役は、二年前、牢獄に入れられていた時にヨセフに夢を解き明かしてもらったことを思い出したのです。給仕役は、その時のことを思い出し、「ああ、ヨセフがいる」と思ったと思います。しかし、もう一つ思い出したことがありました。それは、ヨセフと交わしていた約束でした。給仕役はヨセフから夢を解き明かしてもらった時、「牢獄を出たら、ヨセフのことをファラオに話す」と約束していたのです。しかし、給仕役はそのことをすっかり忘れていました。なので、給仕役は、ファラオに対し、「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出しました」と語ったのです。私は給仕役がこんなふうに自分の過ちを告白するということは、簡単なことではなかったんじゃないかと思います。「忘れていました。ごめんなさい」では済まないこともあり得たのではないでしょうか。

かつて、この給仕役は、ファラオに対して過ちを犯していたということで、牢獄に捕らえられていました。その後、何とか元の仕事に復帰することができたのですが、同じ時期に過ちを犯した罪で捕えられた料理役は処刑されてしまっていました。そのような経験をしていた給仕役とすれば、ファラオの前で過ちを告白するということは簡単なことではなかったんじゃないかと思うのです。そして、正直、このことを黙っていることだってできたんじゃないでしょうか。そんなことを思う時、給仕役が「わたしは今日になって自分の過ちを思い出しました」と告げたことは当たり前ではなかったんじゃないかと思います。ただ、そんなふうに、給仕役がヨセフのことを言わなければ、ヨセフはこの場所に連れてこられることもありませんでしたし、その後の出来事が起こることもなかったのです。

創世記41章には、私たちの思いを超えた神様の御業が起こされています。それは、エジプトの国、そして、ヨセフを救う神様の御業でした。そのような神様の救いの御業がなされていくにあたって、「ファラオ」という人がいて、「給仕役」がいたということを覚えていたいと思います。今も、神様は、私たちのただ中で、御業をなさろうとされています。救いの御業をなさろうとされています。そんな中、神の救いの御業がなされていく時に、そこには今も「ファラオのような人」がいるのだと思います。自分の中に、ひそかに不安や恐れを抱えながら、その思いをありのままに打ち明け、心を開いて、向き合おうとし、また、自分に語られる神の御言葉に真摯に耳を傾けようとする「ファラオのような人」がいるのだと思うのです。また、そこには「給仕役のような人」もいるのだと思います。自分の中で示された過ちをごまかしたり、伏せたりすることなく、包み隠さずに自分が語るべきことをありのままに語る「給仕役のような人」がいるのだと思うのです。そのような人たちが起こされていく中で、神様の救いの御業がなされていくのだと思うのです。

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