本日のローズンゲンの御言葉です。

「『お前は自分の道を思い起こし、姉たちと妹たちを受け入れるとき、恥を負うであろう。わたしは、彼女たちを娘としてお前に与える。しかしお前が契約を守ったからではない。

こうして、お前が行ったすべてのことについて、わたしがお前を赦すとき、お前は自分のしたことを思い起こして恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる』と主なる神は言われる。」エゼキエル16:61,63

「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」Ⅱコリント7:10

以前、神学校への献身を考えていた一人のある女子青年がこんなことを言っていました。

「献身のことを考えているんだけど、神学校で神学を学ぶと信仰を無くすという人がいるんだよね。頭で色々考えて、それまでの自分の信仰が失われてしまう。そういうことがあるんだとすれば、神学校でなんか学ばないほうがいいんじゃないかと思ってしまう。」

すると、それを聞いていた牧師がこんなことをおっしゃっていました。

「確かに信仰の事柄を頭であれこれ考えて、分からなくなってしまうということはあるかも知れないね。けれど、神学というのは、基本、反省の学問なんだと思う。これまでの2000年以上の歩みの中で、私たち教会はたくさんの失敗をしてきた。その失敗の中で反省させられながら『これは大事だ』と思うことや、『このことは注意しなければいけない』ということなどをたくさん経験してきた。それら先人たちの思いが神学には込められているんだ。だから、神学をきちっと学ぶことはやはり大事だと思う。もちろん、その神学を通して、それまでの自分が問われることもあるかも知れない。しかし、そこから今一度自分とイエス様との関係を見直していくことは本当に大事だと思うんだ。」

私はそれを聞きながら、本当に考えさせられました。現在、一つの事件を通して、ある宗教団体の問題が取りざたされ、宗教ということについて厳しい問いがなされています。私たち自身、色々なことを考えさせられるのではないでしょうか。しかし、教会は歴史の中でそのようなことを何度も繰り返してきました。宗教が犯してしまう過ちや失敗を何度も見せられてきながら、その都度、大切にしなければならないことを確認してきたのです。その中で大切にしていることの一つが「政教分離」という考えだったり、「信教の自由」ということなのだと思います。いずれにしましても、今、私たちは改めて、様々な問題に問われながら、自分たちとイエス様との関係について考えさせられているのではないでしょうか。祈りつつ、一緒に考えながら、その中で改めて、「これは大事だ」と思うことや、「このことは注意しなければいけない」ということを確認できたらと思います。

本日の箇所には、次のように記されています。

「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」

本日の御言葉に、私はいつも励まされています。私たちは時に、心痛めるような経験や、躓きそうになってしまう経験、場合によっては、失敗の経験をすることがあります。しかし、たとえそのような経験をしたとしても、私たちはそこから新たに歩み出すことができます。その中で心砕かれ、問題に向きあい、それは良くないということを心に刻み、そこから大切なことを学ぶとするなら、そのような御心に適った悲しみは、私たちを「取り消されることのない救いに通じる悔い改め」に生じさせてくれるのです。

私たちの周りには今もたくさんの痛みの出来事がありますが、その中で、今の様々な問題を見据えながら、その都度、「これは大事だ」と思うことや、「このことは注意しなければいけない」ということを確認しながら、共に祈りつつ、歩んでいけたらと思います。                        鈴木牧人

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