本日のローズンゲンの御言葉です。

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。」イザヤ9:5

「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」1ヨハネ4:16

本日の箇所には、次のように記されています。

「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」

本日の箇所を読みながら、心に留まる言葉があります。それは「愛にとどまる」という言葉です。「愛にとどまる」とは、具体的にどういうことでしょう。「とどまる」ということは、一見、消極的な態度に聞こえるかも知れません。しかし、時に大きな決断を要する事柄だったりするのではないでしょうか。一人の神学生が、こんな話をしていました。

「教会で奉仕をしていて、色々と積み重なる嫌なことがあって、気持ちが一杯一杯になって、『もう嫌だ』と家に帰ってしまったことがあった。教会を飛び出して、家に帰ろうと商店街を歩いていたのだけど、その時、ふと心に迫ってくるものがあった。神様から『引き返しなさい』と言われているように思い、結局、引き返して、奉仕を担った。その時、『とどまる』ってこういうことなんだと感じた。」

お話しを聞きながら、その神学生は、きっと、様々な葛藤や思いを通らされながら、そんなふうに「とどまる」選び取りをしたのだろうなと思わされます。私が若い頃、青年会の中でよくこんな話をしたことがあります。

「私たちの全ての交わりが『愛の交わり』にはならないかも知れない。でも、『交わり』がなければ、そこに愛が生まれない。そのことを心にとめながら、まず『交わり』に留まることを止めないようにしよう。」

そんなふうに言いながら、「交わり」の大切さを語りあってきました。本日の「愛にとどまる」ということを考えながら、その言葉も思い出しました。コロナの時代、お互いに繋がるということが本当に難しい状況があります。そんな中、お互い、それぞれに思いがあっても、実際に中々顔と顔をあわせて、会えない状況の中で、気持ちがすれ違ったり、コミュニケーショントラブルがあったり、気持ちに温度差や溝ができてしまうことがあるのではないかと思います。そんなことを思いながら、改めて、「交わりこと」「とどまること」の大切さを思わされます。そんな中、交わることを止めないこと、とどまることを止めないことの選び取りから、主の御業が始まっていくことがあるのではないでしょうか。

鈴木牧人

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