「神は、悩みの地で」
創世記41章45-52節
神学者のモルトマンが「不安には、とてもよく似たところの姉妹がいる。それは希望だ」ということを語っています。「不安」にしても、「希望」にしても、私たちの心を将来のことに思いを向けさせる…。そのような意味で似ているんだと語ったのです。私たちは「不安」を通して、将来のことに思いを向けていきます。そして、その来るべき将来に身構えをしていくというのです。また、同じように「希望」によって、将来のことに対して思いを向けていきます。そのようにして、将来への希望に励まされたり、力を与えられていくというのです。そのように「不安」と「希望」というのは、それぞれ私たちの心を将来のことに対して思いを向けさせるのです。私は神学生時代に出会ったモルトマンの言葉が深く心に残っています。モルトマンはさらに「本当の希望を知っている人は、不安も知っているんだ」ということも語っています。「希望」を見上げて歩んでいる人は、「不安」も見つめていて、「不安」を見つめつつ、感じつつも、それでも、そのような中で「希望」を見上げているんだと言うのです。その言葉を読みながら、「希望に生きる」ということはそのような緊張感の中に生きていくことなんだということを考えさせられました。
本日の箇所には、ヨセフが、エジプトの宰相として、エジプトの国を治めていった時の様子が記されています。ヨセフは、ファラオによって、エジプトのナンバー2の地位に命じられました。しかし、それというのは手離しで喜べるようなことではありませんでした。なぜなら、ヨセフには大変な任務が託されていたからです。エジプトの国にやがて訪れる飢饉に対処し、その飢饉からエジプトを守らなければならなかったのです。本日の箇所で、ヨセフはエジプトの食糧を可能な限り、蓄えようとしていきます。そんなヨセフの姿を見ながら、先ほどのモルトマンの言葉を思い出します。まさにヨセフは、将来のことにまっすぐ思いを向けながら、そのことに対しての備えをしていったのだなと思うのです。同時に、ヨセフの姿から「不安」に対して、思いを向け、備えていくことの大切さを思います。本日の箇所のヨセフを見ながら思います。7年の飢饉の前には、7年の豊作の期間がありました。その豊作の期間に、目の前の豊作に浮かれることなく、「将来のため、きちんと食糧を備えよう」と考え、備えることは、できそうでいて、中々できないなのではないでしょうか。私たちは、色々なことが上手くいっているとつい足もとを見失い、浮かれてしまいます。そのような中で、周りから問題を指摘されても、中々、耳を傾けることができなかったりするのではないでしょうか。窮地に立たされ、大変なことばかり、心配だらけの状況で、それでも希望を見上げるということもできなかったりするかも知れませんが、うまくいっている時に、きちんと不安を抱き、危機感や問題意識を持っていくということも中々できないのではないかと思うのです。そんなふうに思いながら、本日の箇所で、ヨセフが大豊作のさなか、それでも冷静に将来を見据えながら、淡々と食糧を蓄えていく様子に、中々、できそうでいて、できないことなんじゃないかと思いました。