「どうして顔を見合わせてばかりいるのだ」

創世記42章1-4節

本日の箇所は、ヤコブが、息子たち、ヨセフの兄たちに呼びかけた様子から始まっています。エジプトを襲った飢饉の影響は、エジプトだけでなく、ヤコブたちが住んでいたカナン地方にも及びました。そういう状況の中、ヤコブたちは「どうやらエジプトに穀物があるらしい」との話を聞きつけました。ヤコブは、さっそく息子たちがエジプトに行って食糧を調達してほしいと考えました。しかし、ヨセフの兄たちは中々、出かけようとせず、顔を見合わせてばかりいました。そういう状況にしびれを切らしたヤコブは、「お前たち顔を見合わせてばかりで、何しているんだ」と語りました。ヨセフの兄たちが、エジプトに行くことを躊躇したのは、ヨセフのことがあったからかも知れません。もちろんエジプトで本当にヨセフに再会するとは思っていなかったと思いますが、エジプトに行くということだけで、数十年前のあの日のことを思い出さずにいられなかったりしたのではないでしょうか。自分たちが何十年にわたって蓋をしてきたことに対して向き合わさる思いだったのではないかと思うのです。そんなふうに考えた時、怖かったのではないでしょうか。でも、その一方で、自分たちはエジプトに行ったほうがいいということも分かっていました。そんな中、躊躇し、顔を見合わせてばかりしていたのだと思います。
本日の箇所を読みながら、そんなヨセフの兄たちの姿が心に迫ってきます。兄たちの思いが嫌というほど、分かるなと思うのです。行ったほうがいいとも思いますし、行かなければいけないとも思います。でも、不安だったり、怖かったり、色々な思いが湧き上がって、二の足を踏んでしまう…。そんな中、周りから見たら「いつまでも何やっているの?顔を見合わせてばかりいないで、はやく行くべきところに行きなさい」と言われてしまうような、そんな時があるのではないでしょうか。そこから踏み出すというのは中々できなかったりするかも知れません。しかし、私たちは歩みの中で、時にそういうチャレンジを受けることがあるんじゃないかと思います。自分たちだけだったら、いつまでも二の足を踏んだままであるかも知れません。そんな私たちに、本日のヤコブが息子たちに語りかけたように、「顔を見合わせてばかりいないで、踏み出しなさい」そんなチャレンジを受けることがあるんじゃないかと思うのです。そして、何というのでしょう。そういうことも、教会というところに連なる中で受けることかも知れないと思います。教会に繋がる中で、私たちはそういう信仰のチャレンジを受けることがあるのではないでしょうか。
加えてヤコブは、息子たちに対して、「エジプトに行きなさい。そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか」と語りました。ここでヤコブが呼びかけているメッセージというのは、直接な意味として「エジプトに行けば食糧がありつけるから、生き延びられる」というメッセージなのだと思います。しかしながら、それを言い換えるなら、そこには命の道があるということになるのだと思います。エジプトに行くことはチャレンジかも知れませんが、それに踏み出す時、そこには私たちにとっての命の道があるのです。

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