ローズンゲンの御言葉です。

「あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない。」(申命記5:21)

「愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。」(Ⅱヨハネ1:6)

以前、ある方とこんなやり取りをしたことがあります。色々なことを話している中で「神様の御心って、どこにあるんだろう?」という話になりました。日々を歩んでいると、時々に神様が私たちに願われていること、御心がどこにあるのか、分からなくなってしまいそうになることがあります。そんな時というのは、自分が何をすべきか、選び取っていくべきか、迷ってしまうことがあるよねということを話しあいました。そんなことをあれこれと話しながら、こんな話になりました。

「これが御心だということは一概には言えない。その都度、その都度、神様に向き合いながら、神様と対話しながら、選び取っていくしかないよね。けれど、その中でも、一つの物差しとして、心に覚えていたいことがある。それは十字架の関係だ。神様と私との関係、そして、私と目の前の人との関係…。神様は何より、その関係が建てあげられていくことを願っている。私たちが選び取ろうとしていることが、この十字架の関係を建てあげようとする方向に向かっているか、それともそれとは反対の方向に向かっているか、それが一つの物差しとなるのではないだろうか。たとえ、私たちにとって、それが正しく思えたとしても、私たちがその時に選び取ろうとしている事柄が、十字架を関係を建てあげていく方向と逆行しているなら、一度立ち止まって考える必要があるのだと思う。」

そんなことを話し合ったことがあります。

本日の御言葉には、次のように記されています。

「愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。」

本日の御言葉を読みながら、「(御父の)掟とは、~愛に歩むことです」という言葉が心に留まりました。父なる神が私たちに何より願われていること…。それは、私たちが「愛に歩むこと」です。そして、それというのは、まさしく私たちが「十字架の関係」に生かされていくことなのだと思います。私たちが神様にしっかりと繋がりながら、その信仰の中、目の前の人との関係を建てあげていく…。そのような「十字架の関係」に生かされていくことが、何より主が私たちに願われていくことなのだと思うのです。そして、そのような歩みというのは、足もとの一つ一つのことから始まっていくのだと思います。その歩みを大切にしていきたいと思います。  

 鈴木牧人

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