本日のローズンゲンの御言葉です。

「主は言われた。『お前は怒るが、それは正しいことか。』」ヨナ4:4

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」ガラテヤ6:1

以前、こんなことがありました。創世記3章には、蛇に誘惑されたエバが善悪の知識の木の実を食べ、その後、その木の実をアダムに渡し、アダムもそれを食べてしまったという記事が記されています。この記述を読む時、私たちは蛇に誘惑され、最初に善悪の木の実を食べたエバにばかり注目してしまうことがあります。しかし、ある時、こんな話になりました。

「この記述の中で善悪の知識の木の実を最初に食べたエバはもちろん問題だ。けれど、アダムのことも、私たちはよくよく考えなければならないのではないだろうか。アダムはエバから善悪の知識の木の実を渡され、余りに簡単にその木の実を食べてしまっている。その姿に私たちもあまり注目しないが、アダムはこの時、本当はしなければいけないことがあったのではないだろうか。善悪の知識の木の実を食べようとするエバを留めることだってできたのだと思う。また、エバから善悪の知識の木の実を手渡されても、それを拒むことだってできたのではないだろうか。そうすれば、たとえエバが善悪の知識の木の実を食べて、罪を犯したとしても、その後、エバを執り成すことだってできたのではないかと思う。にも関わらず、アダムは神様に対し、『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』(創世記3:12)と言って、全部の責任をエバに押し付けてしまっている。そんなアダムの姿というのは、私たちに問われているのだろうか。」

私たちは、時に「エバのような過ち」より、「アダムのような過ち」をしてしまうことのほうが多いかも知れないと思います。自分としては過ちに自覚ももたないまま、エバがアダムに流されるように過ちを犯したように、周りに流されるように過ちを犯してしまうのです。そして、私たち自身が「罪を犯した当事者」であるにも関わらず、まるで被害者のように考えるのです。本日の箇所には、次のように記されています。

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」

本日の御言葉を読みながら、「アダムの過ち」を思いました。エバのように、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったとしたなら、私たち自身も誘惑されないように気にしながら、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせることができるよう関わっていきなさい…。そのようなメッセージが語られているのだと思います。そんな中、一番心に留まったのが、「“霊”に導かれて生きているあなたがた」という言葉でした。私たちが様々な誘惑に流されないように、目の前の人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせることができるよう関わっていくために、何より主を見上げ、聖霊に導かれ、生きることが大事なんだなということを思いました。主を見上げながら、日々主の導きを尋ね求めながら歩んでいこうとする中で、一つ一つのことが整えられ、すべきこと、語る言葉も与えられていくんだと思うのです。              鈴木牧人

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