「心配することはありません」

創世記43章15-25節


エジプトにやって来たヤコブの息子たちは、すぐさまヨセフに会いに行きました。すると、これまで散々厳しい態度を取っていたヨセフは突然、自分の住んでいる屋敷に彼らを招待しました。本来、ヤコブの息子たちにとっては、こんな嬉しく、光栄なことはなかったのではないでしょうか。しかし、彼らはこの申し出をすぐに喜ぶことはできませんでした。むしろ、恐ろしさで一杯でした。屋敷に連れていって、どんなことされるか分からない…。酷い目に遭わされ、奴隷にされてしまうかも知れない…。と考えたのです。そんなヤコブの息子たちの姿に「それは無理もないよね」と思います。これまで、そういうふうにしか思えなくなってしまうような経験をしてきたのだと思います。エジプトに来てから、ヤコブの息子たちは、ヨセフから、辛い目にばかり遭ってきました。全く身に覚えがないのに、酷い言いがかりをつけられ、理不尽な思いに散々させられてきたのです。ですから、そんな状況の中で、いきなり食事に誘われても、素直に信じられませんでしたし、喜べませんでした。「本当は何かあるんじゃないか」と勘ぐってしまったのです。私も同じような状況に立たされたら、そんなふうに戸惑ったり、不安がったりしたのではないでしょうか。そんな中、彼らに対し、ヨセフの執事は「御安心なさい。心配することはありません」と語りかけました。そんなふうに言われたとしても、すぐに安心することもできなかったかも知れません。ただ、その言葉にすがるしかありませんでした。そんな中、拭えない不安を抱えながら、執事の言葉に励まされ、身を委ねながら、従っていったのだと思います。
本日の箇所のヤコブの息子たちについて思いを巡らせながら、ふと思わされることがあります。それは何というのでしょう。このヤコブの息子たちの姿というのは、時々の自分にも重なってくることがあるかも知れないなということです。信仰の歩みを振り返ってみる時に、こういう経験をさせられることがあったんじゃないかと思うのです。何というのでしょう。目の前に正直、楽観視できないような厳しい状況があります。これまでの色々な経験を鑑みて、不安な思いで一杯になってしまうのです。でも、そういう時に、聖書の御言葉を通して「大丈夫だよ、恐れなくていいんだよ、心配しなくていいんだよ」、そういうメッセージを受けるのです。その御言葉には、本当に励まされる言葉なのですが、一方で、心には未だ拭えない不安があります。でも、状況として、その御言葉にすがるしかありません。そんな中、拭えない不安を抱えながらも、それでも御言葉に励まされ、身を委ねながら、従っていこうとしていく…。そういう経験をさせられることがあります。その後にも本当に色々なことがあって、心が揺さぶられてばかりの経験をさせられたりするのですが、結果としては全てが守られていく…。「信じてよかった」「御言葉を本当だ」そのようなことを、身をもって経験することがあるのです。信仰の歩みの中で、そういう経験をすることがあるのではないでしょうか。そして、そういう経験を通して、信仰の大切なことを学んだり、私たちの信仰の思いがさらに確かなものにされていくということがあるのではないかと思います。

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