本日のローズンゲンの御言葉です。

「主なる神はこう言われる。わたしがイスラエルの家を、彼らの散らされた諸国の民の中から集めるとき、彼らによって、わたしは自分の聖なることを諸国民の前に示す。彼らは、わたしがわたしの僕ヤコブに与えた土地に住む。」エゼキエル28:25

「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」ローマ11:29

本日の箇所には、次のように記されています。

「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」

ここには、神様が私たちに与えてくださっている賜物、そして、私たちに対して与えられた招きは、取り消されることがないということが書かれています。ここで記されている「取り消されない」という言葉は、アメタメレートスというギリシア語が使われています。本来、この言葉は「変わることがない」という意味があります。ですの、「取り消されない」という言葉は、ギリシア語の言葉をそのまま訳した「直訳」というより、内容や意味を訳した「意訳」ということが言えるのだと思います。そのように「意訳」している別の聖書では、このような訳し方をしていました。

「神の賜物と召しは神ご自身を後悔させることはありません。」

この言葉は原文のニュアンスから言えば、だいぶ独特な意訳と言えるかも知れません。しかしながら、この言葉を読む時、このローマ11:29でパウロが語った思いがさらに強く迫ってくるのではないかと思います。この箇所というのは、パウロが同胞イスラエルの民について語っている箇所です。同胞イスラエルの民は、神様から見捨てられてしまったのだろうか…。決して、そんなことはない…。神様がイスラエルの民に与えられた賜物と召しは今も変わらないんだということが語られているのです。先ほどの意訳は、そのパウロの思いがさらに強く表されているのだと思います。単にイスラエルの民に与えられた賜物や召しが変わらないということだけでなく、もっと積極的に、神様はイスラエルの民を神の民として召し、彼らに特別な賜物を与えられたことを決して後悔されていない…。これまでイスラエルの民は、何度となく、神に逆らい、罪を犯し、今も福音を信じようとしない状況があるけれど、それでも神様は彼らを神の民として召されたことを後悔などしていない…。そのように語られているのだと思うのです。

本日の御言葉を読みながら、改めて、この眼差しが私たちにも注がれているんだということを思いました。時々の自分たちを思う時、自信を失ったり、自暴自棄になったりすることがあるかも知れません。しかしながら、そんな私たちを神は愛し、選び、こうして、神の民として立たせてくださいました。そのことを今も後悔されていないのです。そのメッセージは、私たちにとって、本当に慰め、励ましなのではないでしょうか。共にその神様の眼差しに生かされていきたいと思います。

  鈴木牧人

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