本日のローズンゲンの御言葉です。
「あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。」詩編90:8
「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」マタイ6:12
本日の箇所には、次のように記されています。
「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」
この言葉は、私たちが日曜日の礼拝や、祈祷会で毎回祈る『主の祈り』の一節です。この御言葉を読みながら、この御言葉は、私たちを「共に生きる歩みに導く言葉」なんだなと思いました。「赦す」ということは簡単なことではありません。しかし、そのような「赦す」という事柄に向き合わされるのは、何より、私たちがその人と関わっているからなのだと思います。関わらなければ、「赦す」とか「赦さない」とか、そんなことも考えなくていいのだと思うのです。しかし、その人は目の前の人と共に歩もうとするからこそ、その関係に悩み、「赦す」「赦さない」で苦悩しているのだと思います。そのことを思う時、この『主の祈る』の言葉は、私たちを「共に生きる歩みに導く言葉」なのだと思うのです。私たちが誰かと共に生きようとしたり、関わろうとしていく時、そこには色々なことがあるのだと思います。もめることもあったり、ぶつかったりすることもあるんじゃないかと思います。その人のひと言に傷ついたり、感情的になったり、その人のすることが腹が立ったりしながら、赦せないという思いを通らされることもあるのではないかと思うのです。そんな中、この『主の祈り』の言葉が、私たちの中でより一層心に迫ってくることがあるのではないでしょうか。そのように、共に生きることに悩んだり、迷ったりしている私たちに、この『主の祈り』の言葉は、私たちに大切なことを呼びかけ、私たちを「あるべき生き方」に立ち帰らせてくれるのではないかと思います。
私たちの歩みの中には、自分だけであれこれした方が楽に思えることがあります。共に生きるということが、わずらわしく思えることがあります。しかし、聖書は一貫して、私たちを「共に生きる歩み」へと導かれています。それは、この主の祈りの言葉でもそうですし、そもそも主なる神は人を創造された最初から「人が独りでいるのは良くない」(創世記2:18)と言われています。そして、それは私たちが心しておくべき大切な聖書のメッセージなのだと思います。私自身、このことはいつも自分に言い聞かせなければいけないことだなと思っています。自分だけの思いでやっていくなら、色々と楽なこともあるかも知れませんが、共に生きる歩みの中で、自分とは違う人の声があったからこそ、立ち止まることができ、その声で気づくことができるということがありました。そして、何より、自分一人の思いだけで進んでいくなら、きっと不安で仕方なかったのだと思いますし、とてもやっていくことなどできなかったのだと思いますが、そんなふうに心弱くなりそうになった時、思いを合わせてくれる人がいたり、一緒に悩み、一緒に祈り合わせながら、協力してくれる人がいることがどんなに励ましとなり、支えになっただろうかと思うのです。改めて、そのような共に生きる歩みに私たちが招かれていることを覚えていたいと思います。そして、さらに言うなら、私たちは「主にあって」共に生きる歩みに招かれているんだということを覚えていたいと思います。主の祈りは、私たちにそのことをその都度、思い起こさせてくれる祈りなのだと思います。