「どうか恐れないでください」
創世記50章15-21節
ヤコブが亡くなった後、ヨセフの兄弟たちは、ヨセフがもしかしたら自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたことの仕返しをするのではないかと考えました。そこで、人を遣わし、ヨセフに自分たちを赦してくれるよう懇願したのです。兄たちがそんなふうに不安がっていたのも無理はありませんでした。当時、そういうことというのは、実際にあったからです。創世記を読んでいても、たとえば、ヤコブとエサウの話の中に、そういう話が記されています。ヤコブが兄エサウの祝福をだまし取って恨みを買った時、エサウはヤコブに対して激怒しながら、「父が亡くなった時には必ず、ヤコブを殺してやる」(創世記27:41)と考えたということが記されているのです。このことを聞きつけたリベカは、ヤコブが殺されないようにとヤコブを叔父さんの家に避難させました。当時はそういうことが実際にあったのです。ですから、父が亡くなった今、ヨセフが自分たちに何をするか分からないと思ってしまうことはあり得ないことではありませんでした。ですが、このことを聞いたヨセフは涙を流したのでした。ヨセフにしてみれば、すでに兄たちのことを恨んではいませんでした。そのことをきちんと兄たちに伝えてもいました(45:4-5)。それにも関わらず、兄たちからこんなふうに言われてしまうことに、ヨセフは寂しかったろうなと思います。あの時、念を押すように話したのに、兄さんたちは全然分かってくれてなかったんだな…。自分の言うことを信じてくれていなかったんだな…。ヨセフとすれば、そんな思いだったんだと思います。兄たちとしても、色々なことを考え、気を回したりしていたのだと思いますが、そういうことは、ヨセフにとってみれば、寂しいことであり、残念で溜まらないこと、「そんなの余計だよ、そんなのいらないよ」という思いでした。
本日の兄たちの姿を見ながら、私には兄たちの気持ちがよくよく分かります。そして、こういうことは私たちの身近な人間関係でもあるんじゃないかと思います。人と人との関係の中で、相手に対して、色々と気を回し過ぎて、結果、思いがすれ違い、相手に気を使っているつもりが相手を寂しい思いにさせてしまうということがあるんじゃないかと思うのです。そして、さらに思いますのは、私たちはそのようなことをイエス様に対してしていることがあるんじゃないかということです。私たちは時に、「自分が本当にイエス様に赦されているんだろうか」「イエス様に受け入れられているんだろうか」という思いになってしまうことはないでしょうか。あれこれと考えている内に「私なんか」という思いになって、「自分が本当にイエス様に赦されているんだろうか」「イエス様に受け入れられているんだろうか」と考えてしまうのです。結果、イエス様に対して、身を引いていたり、心を拓けなくなってしまったりということがあるのではないかと思うのです。そんな私たちというのは、本日の兄たちと同じなのではないでしょうか。そんな私たちに対して、イエス様は、本日のヨセフのように、残念な思いでおられながら、私たちに涙を流しておられることがあるのではないかと思うのです。