「ヨセフが遺したもの」
創世記50章22-26節
本日の箇所には、ヨセフの最後、召される時の様子が記されています。旧約聖書には、様々な偉業をなしとげた人物の物語が記されていますが、その中でも、ヨセフが成し遂げた働きというのは、抜きに出ているのではないでしょうか。ヨセフは単身、エジプトに来て、文字通り、裸一貫で、エジプトのナンバー2、宰相にまで登りつめました。宰相としての働きも大変有能で、エジプトを世界的飢饉が襲う中、エジプトの国を救い、さらにファラオの王座を確固たるものにするために大きな働きを担っていくのです。また、ヨセフは、カナンの地で飢饉に苦しんでいた自分の家族をも救い出します。カナンの地から、エジプトに連れてきて、安心して過ごすことができるようにしてあげるのです。そのように、ヨセフは様々なことを成し遂げ、ヤコブの家族、そして、後の世代の人たちにもたくさんのものを遺していきました。
しかし、聖書は、さらに「その後」どうなったのかということについても記しています(出エジプト記1章)。ヨセフが亡くなった後、しばらくして、状況が一変してしまいました。エジプトの国では、「ヨセフのことを知らない新しい王が」(出エジ1:8)現れたというのです。その王によって、イスラエルの人々の置かれた環境は一変してしまいます。ヨセフのお陰で保障されていた生活は全て失うこととなり、イスラエルの民はエジプトで奴隷として生活しなければならなくなってしまったのです。そのように、時代の変化の中、様々なものが変わってしまう中、それまで置かれていた状況も、価値観も変わってしまっていました。ヨセフが後の人々に遺したものは何も無くなってしまったかのように思える状況でした。
しかしながら、そうではありませんでした。ヨセフは本日の箇所で、家族の者たちに対して、私が亡くなった後、神様は必ず、あなたたちを顧み、エジプトの国からカナンの地に導き上ってくださることを語りました。そして、その時には、私の骨を一緒に携え上ってほしいとお願いしたのです。時代の移り変わりの中で、ヨセフが遺した様々な功績や、遺産は価値を失ってしまったかも知れませんが、この時、語ったヨセフの言葉は遺りました。そして、このヨセフの言葉は、後の人々にとって、神様の約束の言葉として希望のメッセージになっていったのです。時代が変わり、奴隷生活を強いられるようになってからも、イスラエルの人々はこのヨセフの言葉を神様からの約束の言葉として握りしめていました。そして、ヨセフが亡くなり、数百年が経った後、モーセによって、イスラエルの民がエジプトから出ていった時、モーセはヨセフの骨を携えて出て行ったのです。
この創世記の記述を読みながら、Ⅰペトロ1:24-25を思います。「こう言われているからです。『人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。』これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです」(Ⅰペトロ1:24-26)。この御言葉にあるように、時代が変わり、状況が変わり、考え方、価値観が変わっていったとしても、決して変わらないものがあります。それは主から与えられた約束の言葉です。ヨセフは、後の世代の人々に何より、その信仰を遺したのです。