「あなたの息子は生きる」
ヨハネによる福音書4章43-54節
本日の箇所でイエスは王の役人に対して「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない(4:48)と言われました。この言葉は王の役人に対してだけではなく、ガリラヤの人たち全体に対して、言われているのだと思います。イエス様のことを歓迎して、迎えている彼らに対して、「あなたたちが信じると言っているのは、しるしや不思議な業を見たからでしょ」「そこだけを見ているんでしょ」そんな彼らに対して「それでは本当の意味で、神様との関係を築くことはできないよ」と呼びかけておられるのだと思うのです。
いずれにしましても、イエス様は、この王の役人への癒しの出来事で、「見なければ信じない」という人々に対して、「見ないで信じる」者となるようにということを呼びかけているのだと思います。ですから、王の役人が「一緒に来てください」という時にもそれを拒んだりしたのだと思います。そして、本日はこのことについて考えていきたいと思います。イエス様は、「見なければ信じない」者ではなく、「見ないで信じる」者となるようにと招いておられる…。そのことを覚えていたいと思います。ただ、このことを「見なくても信じる者にならなければいけないんだ」というふうに受け取ってしまうと、「そうあらなければならない」と思いばかりが先走って「自分はだめだな」「不信仰だ」と思ってしまうかも知れません。ですが、イエス様が招こうとしておられることというのは、そういうことではないだと思います。私たちが「見なくても信じる」ことができるとするなら、それは、それだけの信頼関係が築けているからだと思うのです。先日、一人のお母さんから「今日から息子が小学校に行くんです」とLINEが来ました。「お祈りしています」と返信したのですが、しばらくして「無事に帰ってきました」とLINEをいただきました。LINEのやり取りを通して、お母さんはきっとその日一日ドキドキしながら過ごしたのだろうなと思いました。お子さんが小学校に出かけてから、帰ってくるまでの時間というのは、お母さんにとって、見えない部分です。あれこれ心配をしだすなら、心配は尽きないと思います。そんな中、子どもが元気な顔で帰ってくれば安心できるのだと思いますし、そのことが続けば、だんだんと心配も無くなっていくのだと思います。加えて、先生とやり取りしながら、学校の様子を聞いたり、信頼関係を築いていくなら、なおさら安心できるようになっていくのだと思います。
そんなお母さんとのやり取りをしながら、「見なくても信じる」ということは、そういう関係に生かされていくことだと教えられました。いきなり「見ないで信じなさい」と言われても、中々そんなふうにはできないかも知れません。ですが、お子さんの様子に安心したり、先生との信頼関係を築きながら、「きっと大丈夫」と思える時、見なくても信じることができるのだと思うのです。イエス様は私たちとそういう関係を築こうと願っておられるのだと思います。「見なくても信じる」ということは、見なくても信じる者にならなければいけない、見ないで信じないとダメだということより、そんなふうに「信じていいんだよ」というイエス様からの呼びかけなのです。