「べトザタの池にて」
ヨハネによる福音書5章1-9節
本日の箇所に記されている「ベトザタの池」について、ある本には「『律法の世界』が表されている」と書かれていました。「ベトザタの池」には、五つの回廊があったと書かれています。これは「旧約聖書のモーセ五書を象徴しているんだ」というのです。そのように、この「ベトザタの池」は、律法の世界を象徴しており、その律法の世界で生きながら、自分の抱えているどうしようもない病を苦しみ、散々苦しんで、もはや身動きが取れなくなってしまった人が本日の主人公なんだというのです。聖書には「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマ3:20)と記されています。律法は、本来、神様が私たちに「こう生きるべきだ」ということを教えてくださった大切な戒めです。しかしながら、その律法は私たちを苦しめるだけでした。律法に生きようとしても、それに応えられない私たちがいるからです。結果、律法は正しいということが分かっているがゆえに、それができない自分の姿に挫折し、苦しむのです。それゆえ、パウロは「律法によっては、罪の自覚しか生じない」と語ったのです。本日の「ベトザタの池」の人の苦しんでいる様子を見る時、そのようにして律法の世界で苦しむ私たちの姿と重なってきます。
このベトザタの池では、人々がお互いに競いあっていました。池の水が動いた時には、我先にと池の水に降りていこうとしていたのです。互いに、重荷や弱さを抱えながら、支えあい、励ましあうより、その中で互いに競いあい、「できる人」と「できない人」の優劣が生まれていたのです。その姿も律法の世界に重なってきます。本来、律法が「こうあるべきだ」「こうあらなければならない」という要求には、本当は誰一人応えられないはずでした。しかし、そのような律法の世界でも「できる人」「できない人」の優劣が生まれていきました。その象徴がファリサイ派の人々でした。彼らは徴税人や罪人を指して、「自分たちはあんな奴らとは違う」と考えていたのです。そのように、自分たちも「罪」の問題を抱えていたのですが、自分たちは「できる人」の側に立っていたのです。
本日の「ベトザタの池」で展開されている世界というのは、そのような「律法の世界」を象徴している場所でした。そして、それというのは、私たちの周りにも、そのような世界があるのではないかと思います。学校の中で、職場で、そういう世界を築きながら、生きづらさや生きにくさを抱えながら歩んでいるのではないでしょうか。そして、そのような生きづらさを抱えつつ、その一方で否応なく、様々な競争の中に入れられてしまっています。本当にその先に解決や救いがあるのだろうかと思いつつ、その競争から逃れられないでいるのです。そんなことを考える時、ベトザテの池の前で、三十八年間、身動きを取れずにこの人のことが他人事に思えません。時々の私たち自身なのではないかと思うのです。そして、この人にイエス様が出会ってくださったんだなと思うのです。イエス様はそんなふうに私たちにも出会ってくださろうとしているのだと思うのです。