本日のローズンゲンの御言葉です。
「神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。」詩編60:14
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」ローマ12:1
本日の御言葉には、次のように記されています。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
私はこれまで、幾人ものの牧師から「教会というのは、礼拝が豊かにされていけば、教会全体が豊かにされていくんだよ」と聞かされてきました。礼拝が、教会の、そして、教会に連なる私たち一人一人の、祝福の源なのだと言うのです。そして、それというのは、私自身、これまでの歩みを振り返って、本当にそうだなと思います。ですから、私たちはもっともっと礼拝に集中していきたいですし、共に素晴らしい礼拝を献げていきたいと思うのです。
礼拝が豊かにされるとは、どういうことでしょうか。たとえば、会堂が新しくなって、もっと大きな会堂で礼拝を献げることでしょうか。人が増えて、働き人が増えたり、讃美の声がもっと大きくなったり、献金が増えて、設備が充実して、録音機器、音響機器が充実していくということでしょうか。確かにそういうことを通して、私たちは教会が豊かにされていくことをリアルに実感していくかも知れません。しかし、もっと本質的なことがあるのだと思います。その大切なキーワードが、本日の御言葉に書かれているのだと思います。
ここでパウロは、「自分の全部をもって、神に飛び込んでいきなさい。神に自分を献げなさい。それこそが、あなたがたのなすべき礼拝です」と語りました。私たちが礼拝を通して、そのような神様との出会いを経験していくなら、その礼拝は私たちにとって特別な時となり、そこから新たな祝福が始まっていくのではないかと思うのです。昨日の礼拝後、幾人かの方から、礼拝を受けての感想のコメントを聞くことができました。礼拝を通しての御言葉を受けて、思うことをお話ししてくださったのですが、そのコメントを読みながら、その方が「礼拝を通して、新たな思いで押し出され、歩みだそうとされているんだな」と思わされました。それらのコメントに嬉しいなと思いつつ、そんなふうに、私たちが礼拝を通して、主に出会い、その都度、新たな思いで主に自らを献げ、踏み出していく時、その礼拝から新たな祝福が始まっていくのだと思いました。
そのような礼拝を共に献げていくことができたらと思わされます。
鈴木牧人