本日のローズンゲンの御言葉です。
「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」詩編23:6
「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」使徒2:46-47
本日の箇所には、次のように記されています。
「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」
ここには、初代教会の交わりの様子が記されています。そんな中、印象深い言葉は「一つ」という言葉です。この「一つとなった」ということが、初代教会の特徴でした。そして、彼らがそのような群れにされていったということには、神の御心が実現した証でした。ヨハネによる福音書には、イエス様が十字架にかかる直前に祈られていた祈りの言葉が記されています。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(ヨハネ17:11)。この言葉にもあるように、イエス様は十字架を間近にされていた状況の中で、弟子たちが守られ、彼らが一つとされていくことを祈られていたのです。改めて、教会の姿として、「一つとされる」ということが大事なことなんだなと思います。それぞれ個性もあり、様々な背景や思いがある私たちが互いに一つとされていくことは簡単なことではありません。まず大切なことはしっかりとしたコミュニケーションをもつことから始まるのだろうと思います。よくよく話し合い、分かち合ってみないと、お互いに分かりあえないですから、一つになるためにはコミュニケーションをとることが何より大事なのだと思います。しかしながら、コミュニケーションをとれば良いということでもありません。私たちが互いに交わりにとどまり、一致に導かれるためには、イエス・キリストの十字架を見上げることが必要です。また、私たちの交わりを主が取扱ってくださることが必要なのだと思います。本日の箇所でも、初代教会の人たちは、相互の交わり、パンを裂くことを大切にしていきました。「パンを裂く」とは、主の晩餐を意味します。初代教会の人たちは、主の晩餐を通して、イエス・キリストの十字架と復活を想起し、またそのイエス・キリストが約束されていた将来の希望を見上げていきました。そのようにして、主の晩餐を通して、常にイエス・キリストを思い起こし、その十字架を中心とした交わりを培っていったのです。
本日、主の晩餐があります。私たちの教会では、コロナの間も、この主の晩餐の交わりを大切にしてきました。コロナの間、主の晩餐は一つ一つのパンと杯を小分けにして、皆さんに配餐していました。小分けにする奉仕を主に担ってくださっていたのは、当時、礼典執事だったA姉です。現在、A姉は入院をされています。代わりに他の執事の方々が主の晩餐の準備をしてくださることになりました。そんなふうに、様々な方の背後のご奉仕により、主の晩餐が守られていることを感謝いたします。この主の晩餐を通して、私たちは主にあって一つのものとされていきますようにと祈ります。特に、様々な都合で中々教会に来ることができない方々とも、イエス・キリストの十字架を見上げる信仰を通して繋がることができますようにと祈ります。
鈴木牧人