「その声を聞いた者は生きる」
ヨハネによる福音書5:24-30
本日の箇所を読みながら、心に留まる言葉があります。それは「聞く」という言葉です。ここには7節の間に、5回も「聞く」ということが語られています。私たちは「聞く」ことについて、どんなふうにしているでしょうか。時に周りの人の言葉に対して、中々聞くことができない私たちはいないでしょうか。ましてや、イエス様の言葉はどうでしょう。せっかくイエス様の言葉には命があり、その声を聞く者は生きる力があったとしても、その言葉を聞くことができているだろうかと思うのです。
ローマ10:17には次のように語られています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。この御言葉を読む時、改めて、私たちの信仰は「聞く信仰」「聞くことから始まる信仰」なんだなと思います。ですが、さらにこの御言葉に注目したいと思います。ここでは、まず、信仰について「聞くことにより」始まるということが語られていて、「しかも」と続いて、「キリストの言葉を聞くことによって始まる」と語られています。この最初の「聞くことにより」という言葉と「キリストの言葉を聞くことによって」という言葉の繋がりについて考えたいと思うのです。ここで「しかも」と訳されている箇所は、ギリシア語の「デ」という言葉が使われています。この言葉は「次に」と訳すことができる言葉です。そのことを意識して訳すなら、「信仰は聞くことから始まる。次に、キリストの言葉を聞くことによって始まる」というふうになるのではないかと思います。
なぜ、こんな訳し方をするのかと言いますと、私たちが、もし、聞くことを大切にしようとしていくなら、おそらくそこでは、キリストの言葉以外に色々な声が聞こえてくるのではないかと思うからです。そして、そのような色々な声が聞こえてくる中、どの声を聞けばいいのか分からなくなってしまいそうになることもあるかも知れません。信仰は聞くことが大事ですが、そのように聞くことを大事にしようとしていく時に、どの声に聞こうとしていくかということが問われるのです。色々な声が聞こえ、どの声に耳を聞けばいいのか、迷ったり、悩んだりしていく中、その中でキリストの声に聞こうとしていく…。そこから私たちの信仰の歩みが始まっていくということがあるのではないかと思うのです。
それというのは、たとえるなら、ラジオのチューニングのようなイメージです。昔ながらのラジオというのは、ラジオのスイッチを入れると、最初色々な音が流れます。ニュースが流れたり、洋楽が流れたり、演歌が流れたり、そういう色々な音源に耳を傾けながら、慎重にダイヤルを回してチューニングをしていく内に、私たちが本当に聞きたい音源が聞こえてくるのです。キリストの言葉を聞くという作業も同じようなことがあるのではないでしょうか。
私たちは日々の歩みの中で、色々な声を聞いていくのだと思います。その声に心騒いだり、悩んだり、あれこれ考えてしまったりしてしまうこともあるのではないでしょうか。そういう思いにさせられながら、その中で、私たちは慎重に心をチューニングしていくのです。そして、そのようにしながら、今、本当に私たちが聞くべき声は何なのか、キリストの言葉を聞こうとしていくのです。