「ヨハネにまさる証し」

ヨハネによる福音書5:31-38

本日の箇所で、イエス様は、「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」とおっしゃいました。「ヨハネ」とは、バプテスマのヨハネのことです。ここでイエス様はバプテスマのヨハネにまさる証しがあるということをおっしゃったわけですが、この「まさる」ということについて考えていきたいと思います。「まさる」とはどういうことでしょうか。バプテスマのヨハネより、「すごい」「すばらしい」そんなふうに思うような証しを指して、「まさる」と言われているのでしょうか。5:35で、イエス様はヨハネについて「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」と言われました。人々にとって、バプテスマのヨハネは、寒い時に身体を温め、ほっとすることができるような焚き木の火ようだったと言われたのです。実際そうだったのだと思います。ローマ帝国の支配だったり、ヘロデの横暴な政治がまかり通る中、バプテスマのヨハネを通して、人々は希望の光を見出し、その光に心を温められるような、拠り所を見出すような、そんな思いだったのではないでしょうか。そんな中、人々はバプテスマのヨハネに、しばらくの間、喜びや楽しみを見出そうとしたのです。それがヨハネの証しでした。それにまさるのが、イエス様の証しでした。

しかし、イエス様が人々になされた証しは、決して、人々が期待していたような証しではありませんでした。焚き木の火のように、人々を喜ばせ、楽しませるようなものではありませんでした。むしろ、人々を立ち止まらせ、そのまま立ちつくさせようとするような出来事だったのです。人にはすぐには理解できずに、その人が砕かれ、変えられなければ、その光は見出すことができない出来事でした。イエス・キリストの十字架と復活を通してなされたイエスの証しとは、まさにそのような出来事でした。

本日の箇所を読みながら、改めて思います。私たちがイエス様を見上げる中で何よりも素晴らしい証しは、十字架を通してなされた証しです。その証しは、人々にしてみれば凄いとは思えなかったり、理解できないような証しであるかも知れません。しかし、何ものにもまさる証しがここにあるのです。私たちはこのことを握って歩むのです。この時代、どうしても目に見えるものに心流されてしまうことがあります。また、見た目の華やかさばかりに注目されてしまうことがあります。そのような中にあって、私たちはたとえ人々にとって価値がないと思われたとしても、何にもまして素晴らしいもの、尊いもの、何にもまさるものがあるということを、十字架を見上げる信仰を通して学んでいきたいと思います。そして、イエス様の真実や御言葉の真実というのは、言葉で説明したり、証明したりすることができるものではないかも知れません。信仰の世界は目に見えないかも知れません。しかし、神様御自身が、聖霊御自身が、私たち一人一人にそれが真実であることを証ししてくださるのです。その神様を共に見上げていきたいと思います。

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