本日のローズンゲンの御言葉です。
「『お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる』と主なる神は言われる。」エゼキエル20:44
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」ローマ5:8
先週の土曜日にY姉のお家で家庭集会がありました。家庭集会では、ある本を読みあっているのですが、その中にこんな一文がありました。ある牧師が、自分の家族に関する色々な出来事を経験する中で悩んだり、苦しみながら、次のように語っているのです。
「この体験の過程で学んだ最も重要なことは、つまるところ私には二つに一つの選択しかないということです。一つは、神に対する怒りをそのまま持ち続け、私がしていたように絶望の路線をまっすぐに走ることです。もう一つは、神を神として『主よ、すべてがどうつながるのか、私にはわかりません。なぜこういうことが起こらなければならなかったのかも、理解できません。もう、説明すら求めません。あなたは神であられます。私はあなたのしもべであって、その逆ではないという事実を受け入れます』私はそのように祈りました。選択は、絶望するか、神の主権を受け入れるのか、二つに一つなのです。」(『さあ、天を見上げなさい 神の恩寵とアブラハムの信仰』遠藤嘉信著 いのちのことば社)
家庭集会の中では、この文章が心に残った方も多く、皆さん、それぞれ思うところを語っておられました。本日の箇所には、次のように記されています。
「『お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる』と主なる神は言われる。」
本日の箇所を読みながら、「お前たちはわたしが主であることを知るようになる」との言葉が心に留まりました。そして、ふと先日の家庭集会のことを思い浮かべました。私たちの日々の歩みの中には、色々なことがあります。そんな中、時に先ほどの文章のような思いにさせられることもあるのではないでしょうか。目の前の出来事に心を閉ざし、そのやりきれない思いを、神様に対してぶつけるようにしながら、そのまま持ち続け、「絶望の路線」をまっすぐに走ろうとしてしまうこともあるのだと思います。同時に、そのような状況の中で立ち止まり、心砕かれながら、改めて、神様を神様として受け入れていこうとしていくことがあるのだと思います。正直、今の状況をどう受け入れればいいのか、自分にはまだ分からないし、「どうして?」という思いも拭えないのですが、神様を神様としながら、今、この状況をも神様の御手にあることを信じ、このような状況の中、なおも、その神様が主権をもって私たちを導いてくださっていることに信頼しながら、全ての事柄を神様に委ねていこうとしていく…。そのような思いで、神様を見上げていこうとしていくこともあるのだと思います。そのようにしながら、神様が私たちの主であることを知らされていくということもあるのだと思います。日々の歩みの中、迷ったり、悩んだり、中々思い通りにいかなかったりすることがあったりします。しかし、その中で、心静め、神様を神様とすることから始めていけたらと思います。
鈴木牧人