「それが神の業である」
ヨハネによる福音書6:22-29
本日の箇所の群衆たちを見ながら、思うのは、「それにしても、この人たち、本当に熱心だよな」ということです。イエス様を捜し求めて、あっち行ったり、こっち行ったり、本当に熱心にイエス様を捜し求めているのです。ですが、そんな彼らは、これだけ熱心にイエス様を捜し求めていたにも関わらず、その後、すぐにイエス様から離れてしまいました。彼らはイエス様を求めていたわけではなく、イエス様がなさる御業に期待していました。ですから、イエス様が私たちの思い通りのことをしてくださらないなら、もうイエス様を見上げることができなくなってしまったのでした。そんな群衆たちを思う時、何とも言えない思いにさせられます。そして、思うのは6:28-29の御言葉です。「そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(6:28-29)イエス様はここで、この五千人の供食の出来事を通し、イエス様のことを信じること、そのことこそが神様がこの出来事を通して、なそうとされていることなんだと言われました。
本日の箇所の群衆たちの姿を見ながら、問われていることがこのことなんじゃないかと思います。彼らが本当の意味でイエス様を信じることが問われていたのではないでしょうか。それでは、「イエス様を信じる」ってどういうことでしょうか。ヨハネ6:1-15の五千人の供食の出来事を思い返してみたいと思います。その出来事の際、イエス様を大勢の人たちが空腹でいる状況の中で、フィリポやアンデレに尋ねました。しかし、彼らは「彼らのお腹を満たすためのパンを調達するなんて無理ですよ」と言ったり、「五つのパンと二匹の魚を持ってきてくれた少年がいますが、これっぽっちのパンや魚があってもどうしようもないですよ」と言ったりしていました。しかし、そういう状況の中でも、イエス様は御自分が何をすべきかを知っておられたと記されています(6:6)。私たちにはどうしたらいいか分からない、どうしようもないと思えるような状況の中、イエス様のもとには解決があり、イエス様は何をすべきかを知っておられるんだということが表されていました。その後の6:16-21には、嵐の中での弟子たちの様子が記されています。激しい波風に悩まされ、不安や恐れで一杯になっている弟子たちに対し、イエス様が「わたしだ。恐れることはない」(6:20)と呼びかけられました。弟子たちはそのようなイエス様に対しても恐れを抱いていましたが、イエス様を迎え入れます。そうすることで彼らは無事、向こう岸に着くことができたのでした。弟子たちはこの経験を通し、嵐に遭遇するような人生の危機の時、それでもイエス様は自分たちと共にいて、「わたしがいるから、恐れることはないんだよ」と呼びかけてくださる方であることを知りました。そんな中、そのイエス様が守り、支え、導いてくださる方であることを知ったのです。イエス様がなさることは、一つ一つ自分たちの思いをはるかに超えた驚くべきもの、おそるべきものですが、それでもこのイエス様が共にいてくださるから、心配せず、恐れなくていいんだということを経験したのです。