本日のローズンゲンの御言葉です。

「神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧ください。わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。」ダニエル9:18

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」エフェソ2:8-9

本日の箇所には、次のように記されています。

「神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧ください。わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。」

この御言葉は、ダニエル書の一節です。預言者エレミヤの言葉を通して、エルサレムの荒廃が終わりを迎え、解放が近いことを悟ったダニエルは、主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願しました。そして、主なる神に祈り、罪を告白したのでした。ダニエルは、神様の御業がなされる時が、近いことを確信し、備えとしたのが悔い改めでした。聖書の中に記される信仰者たちは、しばしば、神様が自分たちの歩みに介入しようとしてくださるという状況の中で、悔い改めへと導かれていったことが記されています。

「悔い改め」とは、闇雲に自分を卑下したり、自暴自棄になることではありません。何より、自分自身を正しく認識し、「自分の現在地」を知ることです。自分たちがこれまで、どのような歩みをたどってきたのか。どのような経緯をたどって今の状態に至っているのか。ここまでの歩みを振り返って見えてきた課題とは何か。偽りやごまかしのない眼差しで見つめながら、自分たちの歴史を正しく知り、今の自分たちが立っている「現在地」を見ていこうとしていくのです。

ダニエルは、ダニエル書9章の中で、これまで自分たちの民が歩んできた歴史について語ります。そこで繰り返し語られていることは、主の正しさ、御言葉の正しさでした。にも関わらず、自分たちは主の御声に耳を傾けず、神に背き続け、結果として、主が警告されていた通りの災難が、自分たちを襲い、今なお、主のまことに目覚めることができていないことを告白したのでした。このことが偽りやごまかしのない眼差しで見つめたこれまでの自分たちの歴史であり、今の自分たちが立っている「現在地」でした。そのような「現在地」に立ってダニエルが祈ったのが、「わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。主よ、聞いてください。主よ、お赦しください」との言葉でした。自分たちの立っている「現在地」を知らされていく中で、ダニエルは自分たちの正しさによって神に訴えかけることなどとてもできませんでした。ただただ神の一方的な憐れみにより頼み、赦しと救いを求めるほかなかったのです。しかし、その中でダニエルは神との真実の出会いを経験していったのでした。

ついつい自分のことを棚に上げて、自分の境遇ばかり嘆いたり、呟いたり、周りのせいにしたりばかりしている私がいます。そんな自分を思いながら、改めて、神様の御前に静まり、自分の「現在地」をきちんと見ようとしていくことを大切にしていきたいと思いました。

鈴木牧人

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