「このパンを食べる者は」
ヨハネによる福音書6:41-59
私は学生時代、ある牧師から言われた言葉が忘れられません。その牧師は、私に聖書は読むものじゃないんだよ。聖書は食べるものなんだよ」と教えてくれました。私はその牧師が言っていることの意味がさっぱり分かりませんでした。ですが、お話を聞く内に、言わんとしていることがだんだんと分かってきました。聖書というのは、何より私たちの魂を養い、育み、成長させてくれるものです。私たちにとっての霊的な食べ物であり、そのような意味で「聖書は読むものではなく、食べる者なんだ」とおっしゃっていたのです。その牧師を通して、私の中で、聖書の読み方が大きく変えられました。私の中で、それまで聖書は「読むもの」、「読まなければいけないもの」という感覚でした。そうしますと、どこか自分の中で聖書を読むということに関して構えてしまっていた部分もあったように思います。ですが、聖書は食べるものと言われた時、私は単純に食べることが何より好きですので、聖書の接し方がグッとハードルが下がったように思います。
それからだいぶ時が経ち、ある教会の交わりの中で、その牧師の言葉を紹介し、「聖書というのは読むものではなくて、食べるものなんです」と話しました。ですが、そこにいた一人の人からこんなことを言われました。「何を言っているんですか。聖書を食べるってそんなバカな」と言ったのです。そんなふうに言われ、笑われてしまったのです。私は正直、ショックでした。ですが、よくよく考えてみます時に、私も最初そうだったなと思いました。私も最初、牧師からその話を聞いた時、意味が分からずに戸惑いました。ですから、その人に丁寧に説明しようとしたのですが、結局、伝わりませんでした。残念だなと思いました。
本日の聖書の箇所を読む時、その時のことを思い出しました。ヨハネ6:1-15に記されている「五千人の供食の奇蹟」を目の当たりにした人々はイエス様を王様にしようとしました。ですが、イエス様はそれを拒みます。イエス様が人々に願っておられたことは、五つのパンと二匹の魚を通して、イエス様が神様から遣わされた救い主であることを信じることでした。イエス様は、人々とのやり取りの中で「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(6:29)ということをお話になります。これに対して、人々は「あなたが本当にメシアだというなら、そのしるしを見せてほしい。かつて、自分たちの先祖は、モーセの時代に天からのマンナを食べた。同じように天からのパンを食べさせてくれるのか」と訴えました。これに対して、イエス様が言われたのが「わたしこそが命のパンなんだ」ということでした。あなたたちを本当に満たし、そして、永遠の命に生かしてくれるのは、イエス様を信じ、受け入れることなんだということをお話になったのです。しかし、人々はイエス様がおっしゃっていることがまるで理解できませんでした。「イエスが天からのパンだなんて何言っているんだ」とつぶやいていったのです。本日の箇所を読みながら、先ほどの話を思い出しました。改めてイエス・キリストこそが、私たちにとっての本当の意味での命の糧なのだということを思いました。