「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」
ヨハネによる福音書6:60-71
ヨハネ6:1-15には「五千人の供食」の出来事が記されています。人々は、この出来事に驚き、「イエス様がいてくださったら、もはや自分たちはお腹が空いて困ることなんかない」と考え、イエス様を自分たちの王様にしようとします。しかし、イエス様はそれを拒まれました。イエス様がこの奇蹟を通して、人々に望んでいたことはそういうことではなかったのです。イエス様は、この奇蹟を通して、イエス様こそが命のパンであり、イエス様に出会うこと、信じること、受け入れることを願っておられたのでした。しかし、人々はイエス様の思いとは全然違う方向を向いていました。イエス様が与えてくださったパンばかり見ていた人々は、イエス様の言われることが理解できず、イエス様に失望していきました。人々はイエス様からの話を聞き、「実にひどい話だ」と語りました。そして、イエス様から離れ去っていってしまったのでした。
イエス様は彼らをどんな思いで見つめておられたのでしょうか。心を痛めながら、見つめておられたのではないかと思います。ですが、イエス様としては、すでに、そんなふうに人々が言うことも分かっておられました。そして、12人の弟子たちに対しても、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われたのでした。すると、これに対し、ペトロは「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」(6:68-69)と答えたのでした。
多くの人々がイエス様に躓き、離れていく中で、それでも、イエス様のもとに留まり、イエス様に対して「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と語ったペトロの姿から、本日の記述は、「ペトロの信仰告白」の記述と言うことができるのではないかと思います。ペトロの信仰告白と言いますと、フィリポ・カイサリアで「あなたは、メシアです」(マルコ8:29)と語った箇所が有名です。ですが、この記述は、ヨハネによる福音書には記されていません。その代わりであるかのように記されているのが、本日の記述です。
本日のペトロの姿を思いながら、自分自身が問われるように思いました。私たちはどうでしょう。私たちも時にペトロのような思いを通らされることがあるかも知れません。周りからは色々な声が聞こえてくることがあります。そういう声に簡単に流されてしまいそうになることがあります。そういう状況の中で、自分自身を見失わないようにすること、大切なものをしっかり握りしめていくこと…。本当にそれは大事なことなのだと思います。そして、そのように自分を見失わないようするために、色々なことを整理していくための物差しとなるものが信仰告白です。私たちはこうして、聖書を読んだり、祈ったり、礼拝を献げたり、信仰の思いをみなで分かち合うことを通して、自分たちの信仰を育んでいきます。そして、その信仰を自分なりの言葉として整理していきます。そのことを色々なことがある中で、自分自身の思いや考えを整理していくための判断の物差しとしていくのです。