「兄弟たちの言葉」
ヨハネによる福音書7章1-9節
本日の箇所には、イエス様と兄弟たちとのやり取りが記されています。兄弟たちはイエス様に対して、「仮庵祭が近づいているのだから、ユダヤ(ここではエルサレムのこと)に行きなさい」と語ったのでした。兄弟たちとしては、単純にそういうふうに思って、こんなことを言っているのかも知れません。しかし、その言葉は、あまりにイエス様のことを考えていない、無責任な発言でした。この時、イエス様は、ユダヤ人たちから命を狙われていました。何も考えずにエルサレムに行けば、どうなってしまうか、分からなかったのです。
本日の箇所のやり取りを思う時、何ともやるせない思いにさせられます。そもそも、イエス様がユダヤ人たちから祈りを狙われることになったのも、イエス様が何か悪いことをしたからではありませんでした。38年間も寝たきりで苦しんでいた人を癒してくだったのです。それなのに、ユダヤ人たちからあれこれと批判され、最終的に命まで狙われてしまうことになったのです。そのことだけでもやりきれないような思いになってしまいます。そんな中、一番身近な存在であるはずの兄弟たちから、勝手なことを言われてしまうのです。
こういうことは、私たちの身の周りでも、あるのではないでしょうか。私たちは、私たちなりに精一杯のことをしようとしているのに、中々、そういうことを理解してもらえない…。そんな中、私たちの状況や、私たちの思いも何も分かってもらえないまま、無責任に「ああだ」「こうだ」と言われてしまう…。そういう言葉に傷ついたり、やりきれない思いにさせられたりということがあるのではないでしょうか。私たちが時に誰かに対して、そういう言葉を不用意に語ってしまっているということもあるかも知れないと思います。
そんなふうに、私たちの身近な色々なことに重ね合わせながら、本日の箇所から三つの言葉が心に留まりました。一つは、「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」(7:5)という言葉です。兄弟たちはイエス様のことを信じていませんでした。そんな兄弟たちがあれこれ言う言葉は、本当の意味で、イエス様のための言葉にはなっていなかったのです。兄弟たちの姿を見ながら、改めて、相手と「信じる」という形で向き合い、そういう中で言葉をかけることの大切さを思います。加えて「わたしの時はまだ来ていない」(7:6)という言葉も心に留まります。物事には、たとえ「そうしたほうがいい」ということがあっても、それをするのにふさわしい「時」、「タイミング」があります。その「時」を間違えてしまうと、せっかくの事柄もおかしくなってしまうことがあるのだと思います。さらに「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる」(7:7)という言葉が心に留まりました。この世はイエス様を憎んでいたかも知れません。ですが、イエス様は、たとえそうであっても、この世をこの世を愛してくださっていたのです(ヨハネ3:16)。
この三つのこと、相手と「信じる」という形で向き合いながら言葉を交わし合うこと、「時」の大切さ、そして、たとえ憎しみの中でも変わらないイエスの「愛」の姿、その一つ一つがこの時代にあって、私たちが見失ってはならないことなのだと思いました。