本日のローズンゲンの御言葉です。

「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。」ヨシュア24:14

「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」ガラテヤ4:8-9

先日、Y姉のお家で家庭集会が行われました。家庭集会では現在ヨナ記を読んでいます。預言者ヨナは神様からアッシリアの首都ニネベにメッセージを伝えられるように命じられます。しかし、ヨナはニネベに行きたくなかったので、ニネベとは正反対のタルシシュに向かうのです。そこでヨナは大嵐に遭遇します。大嵐の原因がヨナにあることを知った人々は、ヨナを海に投げ込みます。ヨナは海の中で魚に飲み込まれてしまうのですが、その後、陸地に吐き出され、助かります。こうして色々な経過を経て、ヨナは一度拒んだはずのニネベに向かうのでした。今回の家庭集会では、そんなヨナがタルシシュに向かう場面を読みあいました。そんな中、聖書と一緒に読みあった本で、心に留まった文章があります。

「ヨナは、神の御旨に従いたくありませんでした。その根本的な原因は、神のことがあまりよくわからなかったということにあると思います。ヨナにとって、神は理不尽な要求をする、ある種の権威者のように思えたのかもしれません。神のことをよく知らないとき、私たちは神を窮屈に感じます。礼拝も祈りも賛美も退屈な一時に感じられ、結局どうでもよいことになってしまいます。何かを求めてというよりも、ただ、人間関係とお付き合いで教会に来るということも起こり得るのです。それは、神のことがよくわからないからです」。(主の御顔を避けて ヨナ書に示された神の「永遠の愛」)

この文章を読みながら、確かにそうかも知れないと思いました。私たちが神様のことをよくわからない時、神様に向き合うこと、神様を礼拝すること、聖書を読んだり、讃美するこがも、退屈に思えたり、わずらわしいことに思えたりすることがあるかも知れません。ましてや「神様に従う」ということなど、二の次になってしまうのではないかと思います。本日の箇所には、次のように記されています。

「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」

ここには神様を知り、神様を信じて歩み始めたにも関わらず、神様以外のものに従い、仕えていく人々の姿が記されています。私たちもそういうふうになってしまうことがあるかも知れないと思いました。そして、私たちがそんなふうになってしまう時、私たちの心に根っこにあるのは「神様のことが分かっていない」ということにあるかも知れません。そんな私たちが神様が窮屈に感じたり、神様に向き合うことが無意味に感じたり、神様以外のものに心惹かれたりしてしまうかも知れないと思いました。そんな中、本日の御言葉にある「(あなたがたは) 今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」という信仰に立ち戻ることができたらと思いました。      

       鈴木牧人

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