「うわべで裁くのではなく」
ヨハネによる福音書7章10-24節
本日の箇所には、仮庵祭のただ中でなされたイエス様とユダヤ人たちとのやり取りが記されています。そこにはたくさんの人がいてイエス様やユダヤ人たちのやり取りを見ていました。本日の箇所を読みながら思わされたのは、「私がこの仮庵祭のただ中にいたとしたらどうだろう」ということでした。7:12-13には、イエス様のことをあれこれ噂していた人々の姿が記されています。そこには「イエス様は良い人だよ」と言う人や「いやいや、あの人は群衆を惑わしているだけだ」と言う人がいました。ユダヤ人指導者たちは完全にイエス様を否定していました。私がもし、そういう人たちの中にいて、これらの言葉を聞いていたとしたらどう思うでしょう。何が本当か、どちらが言っていることが正しいか、きちんと判断することができるだろうかと思いました。そして、そういうことを考えながら、今の時代、そういうことが色々あるんじゃないかと思いました。今の時代、私たちの周りには色々な言葉が飛び交っています。そんな中、何が本当か、正しいか、分からなくなってしまうようなことがあるのではないでしょうか。聞こえてくる声に対して、簡単に流されてしまいそうになったり、何でも素直に受け止められず、斜めからばかり見たりということがあるんじゃないかと思うのです。そんなことを色々考えながら心に迫ってきたのが、7:17の御言葉です。「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」(7:17)。この言葉を読みながら心に留まるのは、「イエス様はここで聖書をよく知っている人なら、わたしの教えが神から出たものか、分かるはずだ」とは言わなかったことです。人々は本日の箇所で、イエス様があまりに聖書に精通していることに驚き、「聖書をこんなによく知っているのだろう」と語りました。これに対して、イエス様はお答えになったという流れでした。普通であるなら、「聖書のことをよく知っている人なら、わたしの教えが神から出たものであることが分かるはずだ」と言うことのほうが自然なのではないでしょうか。ですが、そうではなくて「御心を行なおうとする者」は分かるはずだと言われたのです。
以前、こんなことを言われました。「聖書のことを、神学書を通して勉強することも大事だが、もっと大事なのは聖書の御言葉に具体的に応えて行うことだ。突き詰めて言うなら、私たちが聖書の御言葉を『分かる』ということはない。もし、そう思うとするなら、それは傲慢だ。一方、私たちが御言葉を聞き、その御言葉に具体的な形で応えて行なおうとしていくなら、そうすることで分かってくることが色々ある。御言葉に応えきれない自分自身つきつけられ、砕かれることもある。自分の罪の現実を見せられることもある。そんな自分を見せられたりしながら、そのことの先に、『聖書の御言葉が本当だ』ということ、『御言葉にはどんな時にも変わらない真実があるんだ』ということ、『この御言葉には力があって、神様がこの御言葉を通して今も生きて働いておられるんだ』ということを知らされていくのである。」本日の御言葉を読みながら、その言葉を思い出しました。