本日のローズンゲンの御言葉です。
「わたしは背く彼らをいやし/喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。」ホセア14:5
「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」マタイ6:13
本日の箇所には、次のように記されています。
「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」
この御言葉は、有名な主の祈りの中の一節です。この言葉の前には、次のような言葉があります。
「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」(6:12)。
私は、この6:12の御言葉と、6:13の御言葉を併せて、これらの祈りが「人と関わり、共に生きるということを学んだ人の祈り」なのではないかと考えています。人と関わろうとしなければ、共に生きようとしなければ、場合によっては、こんな祈りの言葉は必要ないのではないでしょうか。しかし、イエス様は、このように祈りなさいと言われました。それは、私たちに「共に生きることを学びなさい」ということでもあるのだと思います。私たちは時に人との関わりで悩んだり、苦しんだりすることがあるのではないでしょうか。そんな中、「いっそのこと、人と関わるのをやめちゃえばよっぽど楽になるんじゃないか」と思ってしまうことがあります。おそらく、人と関わらなければ、問題など起こりませんし、安心して過ごすことができたりすることも多いのではないでしょうか。ですが、私たちはあえて目の前の人と関わっていきます。共に生きることを辞めないでいます。そこにはしばしば「赦しの決断」を通らされるような葛藤があったりします。また、「試み」や「誘惑」を通らされるようなことがあったりもします。そのような経験をさせられる度に、私たちは「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」と祈らないではいられないのだと思うのです。このように、主の祈りに生かされている人は、隣人と共に生きるということを学んでいる人であり、その祈りに支えられながら、隣人と共に生きることを辞めない人のことなのだと思います。
先日も、ある方がしみじみとこんなことをおっしゃっていました。
「仕事をしていると、任される仕事自体も大変だけど、一番大きいのは、人との人間関係なんですよね。」
本当にそうだなと思います。同じ人間関係に支えられている部分も大きいのだと思いますが、時に人間関係で疲弊したり、悩んだりしていることも多いのだと思います。そんな中、改めて、この主の祈りに励まされ、支えられながら、日々の歩みを歩むことができたらと思いました。
鈴木牧人