召天者記念礼拝「希望のうちに生きる」
使徒言行録2章25-26節
「わたしはいつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。」(使徒言行録2:25-26)
この御言葉には「わたしは決して動揺しない」とあります。私たちはどういう時にこのようなことを言うことができるのでしょう。この言葉だけを切り取って考えると、本当に強い人だなと思います。「自分は何があろうと、動揺なんかしないんだ」なんて、中々言えないのではないかと思います。ペトロはそんなふうに強い人だったのでしょうか。そうではなかったのだと思います。かつては自分が強い人だと思っていたかも知れません。ペトロは、イエス様が十字架にかかる直前、他の弟子たちがイエス様を見捨てて逃げ出したとしても、自分は絶対に見捨てることなんかないと豪語していました。どんなことがあっても自分はぶれないし、動揺しない、自分を強い人だと考えていたのです。しかし、イエス様が憲兵たちに捕まってしまうと逃げ出してしまい、「お前はイエスの仲間か」と尋ねられた時には三度も「知らない」とイエス様のことを拒んだのでした。ペトロはいかに自分が簡単に揺さぶられてしまうか、嫌というほど身をもって経験してきたのです。そんなペトロが、本日の箇所で旧約聖書の言葉を引用し、「わたしは決して動揺しない」と語っているのです。ペトロは「自分は強いから決して動揺しないんだ」と語っているのではないと思います。「わたしの右には主がおられるから動揺しない」と語っているのです。ペトロはこの十字架の出来事を通して、実際にそのようなことをたくさん経験してきたのではないでしょうか。十字架の出来事を通して、たくさんの失望や、挫折、取り返しのつかないような失敗を経験しながら、散々動揺させられてきたのだと思うのです。しかし、そんな自分が自分の思いを超えて、主に捕らえられてきたのだと思います。だからこそ、こうして今、一つのところに立つことができるんだという思いを、ペトロ自身、身をもって経験してきたのだと思うのです。
今年、天に召されたTさんとのこんな思い出があります。Tさんのお連れ合いからお電話があり、「お医者さんが『今日や明日、召されても不思議ではない』と言っている」との知らせを受けました。その日の夜、Tさんをお訪ねしました。Tさんの寝室に行くと、Tさんは私を見るなり「悲しい」と言われました。「どうしましたか」と尋ねると、「もう会えなくなるから」とおっしゃっていました。この時、分かちあったのは、使徒2:25-26です。その中で「わたしたちは、いつも目の前にイエス様を見ていくことができるんです。そして、そのイエス様が私たちの右にいてくださるんです。だから、私たちは動揺しないでいられるんです。私たち自身はすぐに揺らいでしまうこともありますが、このイエス様がおられるから動揺しないでいられるんです」ということを分かちあいました。Tさんはその話に静かにうなずいておられました。その翌日、Tさんは天に召されました。この御言葉を読む時、Tさんのことを思い出します。私たちの先達たちは、そのような信仰を歩まれました。召天者記念礼拝において、その先達たちの信仰を心に刻んでいきたいと思います。