本日のローズンゲンの御言葉です。
暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。詩編62:11
善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。Ⅰテモテ6:18
本日は召天者記念礼拝を行ないます。年に一度、私たちより先に召されたお一人お一人を覚え、記念する時を持ちます。この日は召天者のご親族も多く来られます。特に今回、イギリスから、Wさんの妹さんが礼拝に出席してくださることになりました。WさんはAさんのお連れ合いです。Aさんは現在、入院中でそのお見舞いのために来日してくださいました。この機会に召天者記念礼拝に出席していただけることを良かったなと思います。召天者記念礼拝が行なわれた後、二見ヶ浦にある教会墓地に行き、墓前礼拝を献げます。集われるお一人お一人にとって、慰めと励ましの中にある召天者記念礼拝、墓前礼拝となりますことを祈ります。私たちの教会墓地には、聖書の御言葉が刻まれています。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)
これはイエス様が語られた山上の説教と呼ばれる大変有名な御言葉です。心の貧しい人々は幸いという言葉は、通常、中々、理解しがたい言葉ではないでしょうか。福岡出身で修猷館を卒業した神学者で塚本虎二という人がこの箇所をこんなふうに訳しました。
「ああ幸いだ、神に寄りすがる“貧しい人たち”、天の国はその人たちのものとなるのだから」
心の貧しい人々という言葉を、塚本虎二は「神に寄りすがる“貧しい人たち”」と訳したのです。貧しい者は、神に寄りすがる者なんだ…。そうするしかないことを知っている者たちなんだ…。だから、その人たちは幸いだ…。そのように寄りすがる者を神様は決して見放すことがないし、憐れんでくださる…。それゆえ、天の国はその人たちのものとなるということを語っているのです。そのように、この貧しい人は、貧しさを経験したからこそ、そのように神様に寄りすがる生き方を学び、その中で天の国の恵みに与かっていくことができるのです。私たちにとって、貧しさというのは、本当にしんどいことです。できればしたくないと思ったりもします。ですが、そのような貧しさを通らされたゆえにこそ、大切なことを学んだり、与えられたりすることがあるんだなということを思います。そして、実際、私たちの先達の信仰者たちの姿を思う時、そのことを思います。貧しさや悲しみ、そういう色々なことを経験する中で、イエス様に出会い、イエス様に依りすがる生き方を知り、天の国の恵みに与っていったのではないでしょうか。本日の御言葉には、次のように記されています。
「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。」
暴力に依存し、搾取を誇り、力に心奪われる…。それというのは、イエス様が山上の説教で語られた歩みとは正反対の歩みと言えるのではないでしょうか。しかし、今の時代、そのような歩みが横行している世界がどんどん広がっているように思えます。そんな中、この召天者記念礼拝、墓前礼拝を通して、改めて、私たちにとって本当に幸いな生き方は何かを心に刻むことができたらと思います。