成長感謝礼拝「生き方の角度」

申命記6章4-9節

ある討論番組で、一人の人がこんなことを言っていました。「みんなそれぞれ自分たちなりの努力をしている。だけど、その努力の角度が違う。時によくない努力の方向性というものがある。そのことをきちんと教えてくれる人がそばにいない。そのことが問題なんだ」。私たちの歩みには「角度」があって、それが大切なんだなと教えられました。私たちは時に、歩むべき方向性をきちんと教えてもらえないまま、自分だけであれこれ考え、その方向に付き進んでしまうことがあります。その方向がよくない努力の方向性だったりするのです。それに対して、「それは良くないよ」ということを丁寧に伝えながら、努力の方向性や角度が変わるよう、導いていく…。「教育」ということで、もっとも大切なことの一つはそういうことなのではないでしょうか。
そして、それこそが神様がイスラエルの人々に対し、されようとしていたことなのだと思います。本日の御言葉は、出エジプトの際、モーセを通して、イスラエルの人々に語られた律法の言葉の一部です。この御言葉は一般にシェマと呼ばれる御言葉です。律法の御言葉の中でも特に大切な言葉の一つとして、イスラエルの人々が心に刻んでいる言葉です。神様はこのようにイスラエルの人々に神様の戒めである律法を教えられました。しかも、その戒めに対して「これを守らなければいけないんだ」と強い形で教えられました。そこだけを見てしまいますと、「律法って厳しいな」と思ってしまうかも知れません。ですが、改めて、神様がこのような律法をイスラエルの人々に与えられたことの意味について、よくよく考えていきたいと思うのです。この時、イスラエルの人々は右も左も分かっていないような人々でした。それまではエジプトの地で奴隷の民として、エジプトの人々から「これをしろ」と言われたことをずっとしてきたのです。そんな彼らはいきなり、これから自由だよ、自分たちで自由な民として生きていっていいんだよと言われても、どうしていけばいいのか、どう歩んでいけばいいのか分からなかったのだと思います。何も教育も受けず、訓練も受けなかったとしたなら、ただ自己流でどんどん突き進んでしまったのではないでしょうか。まさに生き方の方向性、角度がどこに向かってしまうか分かりませんでした。そんな彼らに神様は「本当に幸いな生き方、祝福に至る生き方はこうなんだ」「命にいたる道はこうなんだ」ということを教えるために与えられたのが、律法だったのです。
 ただ、ここで覚えていたいことがあります。私たちは、そのような戒め、教えを大切にしようとする時、しばしば、細かなところばかりに囚われすぎて、肝心なことが見えなくなってしまうことがあったりするということです。イスラエルの民もそうでした。そんな中、イエス様は律法の戒めには色々あるけれど、何より大切なのは、神様を愛すること、そして、隣人を愛すること、この二つのことなんだと言われたのでした(マルコ12:28-31)。私たちも置かれている状況で、神様を愛し、隣人を愛することを基としながら歩んでいきたいと思います。その時、私たちの大切な「生き方の角度」を定まっていくのだと思います。

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