「あなたたちは知らない」

ヨハネによる福音書7章25-31節

本日の箇所には、仮庵祭におけるイエス様との人々とのやり取りが記されています。人々はイエス様について、「イエス様はメシアだ」「いやいや、そんなことはない」と話し合っていました。そんな人々に対してイエス様は「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない」(7:28)と言われたのでした。人々はイエス様について「自分たちはイエスのことを知っている」と考えていました。しかし、それに対してイエス様は、「あなたたちは、私のことは知っているかも知れない。でも、私を遣わした方のことは知らない」と言われたのでした。このイエス様の言葉について考えてみたいと思います。この言葉は私たちにも問われているのではないでしょうか。
今の時代、クリスチャンであるか、そうではないとかに関わらず、2000年前のパレスチナで、イエスという人物が存在したこと、その人がナザレ出身だったということは、ほとんどの人が認めていることなのだと思います。そのこと自体を否定する人はいないと思います。ただし、「じゃあ、そのイエスという人物が、神様から遣わされた救い主、メシアか」と言うなら、それを信じる人も、信じない人もいるのだと思うのです。それというのは、「イエス様のことは知っている」のですが、「イエス様が誰から遣わされたのかということは知らない」ということなのではないかと思います。
 7:28には「神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた」と書かれています。ある註解書でイエス様が「大声で」と語られた姿に「ここにイエス様の思いが表れているんだ」と書かれていました。その思いとは、イエス様の「怒り」です。人々の頑なさや愚かさに嘆きながら、お怒りになり、大声で語っているんだというのです。加えて、この大声は、イエス様の「祈り」であるとも書かれていました。イエス様は人々を憂い、何とか彼らの思いが拓かれるように、大声で叫ぶように祈っているんだというのです。
私たちはこのイエス様の「大声で」という言葉に何を読み取っていくでしょう。怒りの思いにしても、祈りにしても、そこには、人々への強い思いがあったのだと思います。何とかして、イエス様が救い主、メシアであることを知ってもらいたい…。イエス様を遣わしたお方のことを知ってもらいたい…。そういう思いがあったのだと思います。イエス様が、仮庵祭で、こんなふうにして、人々の前で公然とお話になっているのも、そういう思いからだったのだと思います。仮庵の祭りではすでにイエス様は命を狙われていました。そのような状況の中、お話をするのは少なからず、リスクのあることでした。にも関わらず、人々の前でお話になったのは、何とかして、神様のメッセージを伝えたいという思いからでした。御自身をお遣わしになった神様を伝え、何とか人々を救いたいと願っていたのです。
彼ら何よりも知らなかったことはこのことでした。イエス様がそれほどに、人々のことを思い、愛しておられたことを、人々が分かっていなかったのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Translate »