本日のローズンゲンの御言葉です。
「仕掛けられた網から逃れる鳥のように/わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。」詩編124:7
「イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。」ルカ6:18
本日の箇所には、次のように記されています。
「イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。」
ここには、イエス様のもとに訪れていた色々な人の様子が記されています。イエス様の教えを聞こうとしていた人だったり、病気をいやしていただこうとしていた人、汚れた霊に悩まされていた人たちがいました。聖書にはしばしばこのような記述が記されています。イエス様のもとには様々な痛み、悩み、課題を抱えている人たちがやって来ていたのでした。また、そのような痛み、悩み、課題を抱えていた人たちが、色々な人に連れられてやって来ていた様子も記されています。有名な話では、身体の動かない中風の人を友人たちがイエス様のもとに運んできた記述があります。おそらく、そんなふうに付き添って来ていた人々は、普段の生活においても、様々な形で、この人たちに関わってきていたではないでしょうか。足の不自由な人であれば、どこか移動する時に手助けをしてあげたり、その人をおぶってあげたりしていたのではないでしょうか。目が見えない人であるなら、どこかに行く時に、その人に肩を貸してあげたりしながら、道を先導してあげたりしたのかも知れません。口の利けない人であれば、生活の上で色々とコミュニケーションを取ることが難しい時、真剣にその人の訴えに耳を傾けながら、その人が何を言おうとしているのか、必死に汲み取ろうとしてあげたいたりしたのではないかと思うのです。そんな中、イエス様の噂を聞き、「イエス様のところに行ってみよう!」と考え、共にやって来たのだと思うのです。そのように、イエス様のもとにやって来ている人たちには、それぞれ「共に生きる」ということのドラマがあったのではないかと思います。そういう人たちがイエス様のもとにやって来て、イエス様との出会いを経験していきました。イエス様の御言葉に慰められ、励まされたのだと思いますし、自分たちの思いをはるかに超えたイエス様のいやしの御業を目の当たりにさせられてきたのです。
このようにイエス様に出会い、イエス様の御業を目撃したことと、その人々がそれまで病める人と「共に生きてきたこと」というのは、つながっているのだと思います。病める人と共にイエス様のもとに来ていた人は、おそらく、病める人と共に歩んでいなければ、わざわざ「イエス様のところに行ってみよう」とは思わなかったかも知れないと思うのです。
「共に生きる」とはそういうことなのだと思います。「共に生きる」という時、私たちは色々な思いを通らされることがあるかも知れません。お互いに弱さを抱え、病を抱え、色々な課題を抱えた者同士が共に生きようとしていく時、私たちは互いに色々な苦労や、大変なことを通されていくこともあるかも知れません。しかし、そういう思いを互いに経験しながら、その中でイエス様と出会ったり、イエス様の御業を経験したりすることがあるのです。
鈴木牧人