「捜しても、見つけることがない」
ヨハネによる福音書7:31-36
本日の箇所には、仮庵祭での出来事です。この時、すでに祭司長たちやファリサイ派の人々はイエス様を危険視していました。そんな中、イエス様を捕らえようと下役たちを遣わしたのでした。すると、イエス様は下役たちに対して言われます。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」(7:33-34)。下役はイエス様から聞いた祭司長たちやファリサイ派の人々に伝えました。しかし、彼らはイエス様の言葉を理解できなかったのでした。7:33-34で語られたイエス様の言葉は直接的な意味合いでは、祭司長たち、ファリサイ派の人たちが、イエス様を捕らえようと捜しまわっても、見つけることができないという意味として受け止めることができるのだと思います。しかし、はたして、それだけなのかなと思ったりもします。彼らが捜しても、見つけることがないというのは、そういうことだけなのでしょうか。
祭司長たち、ファリサイ派の人々は、彼らなりに真剣に神様を信じ、神様が救い主を遣わしてくれることを待望していました。ですが、イエス様を救い主と認めることができず、イエス様がなさることをことごとく自分勝手な解釈で受け止め、イエス様が指し示されている方向と違う方向を見つめていたのです。そんな彼らが「捜しても、見つけることができない」のは、イエス様のことを捕まえることができないということだけでなかったのではないかと思います。彼らはそれより、もっと大事なものも見つけることができませんでした。何より、彼らが捜し求めていた神様の救いを見出すことができないでいたのです。そんな彼らを見て、どうでしょう。私たちもそういうことがないかと思います。必死になって捜しているのに、求めているのに、見つけることができないということはないでしょうか。
もう一度、7:34の御言葉に注目したいと思います。イエス様はここで「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない」と言われました。この御言葉の「わたし」を色々な言葉に置き換えてみたらどうでしょう。たとえば、「平和」という言葉に置き換えてみたら、どうでしょう。「あなたたちは、平和を捜しても、見つけることがない」。私たちの歩みを顧みて、そういうことはないだろうかと思います。今の時代、多くの人たちが平和を願い、求めているのだと思います。だれもが争いたくて争っているわけではないのだと思います。にも関わらず、実際にはそれとは真逆の方向に向かっています。それというのは「平和を捜しても見つけることがない」という状況なのではないかと思います。
そして、それは「平和」だけではないかも知れません。たとえば、この「わたし」を「幸い」という言葉に置き換えてみたらどうでしょう。同じように探しても見いだせない私たちがいないだろうかと思います。私はそんな自分を思いながら、自分にできることは、そういう自分のどうにもならない思いをそのままイエス様に打ち明けるようにして祈ることだと思うのです。その時、イエス様が私の歩みを取り扱い、軌道修正してくださるんだなと思うのです。