本日のローズンゲンの御言葉です。

あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ/国々の富を享受し/彼らの栄光を自分のものとする。イザヤ61:6

こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。Ⅰコリント4:1

本日の箇所には、次のように記されています。

「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。」

ここには私たち信仰者が「神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべき」だと言われています。管理者とは、いったいどういうことでしょうか。ルカによる福音書16:1-10には、イエス様がお話になった「不正な管理人」のたとえがあります。このたとえには、一人の管理人が登場します。この管理人は、主人から財産の管理を全て任されていましたが、主人の留守中、主人がいないことをいい事に、財産を自分の好き勝手に無駄遣いしてしまいます。しかし、そんな振る舞いが主人にばれてしまいました。自分がクビになるかも知れないと考えた管理人は、主人に借りのある者たちを呼び寄せ、次々にその人たちの証文を書き換えてしまいました。色々な人に貸しを作っておけば、自分が首になってしまった時に、何かしら便宜を図ってくれるかも知れないと考えたのです。そのように、管理人は、ことごとく主人に対して、恩を仇で返すようなことばかりしていきます。しかし、この一連の管理人の振る舞いを見た主人は、「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(16:8)というのです。イエス様はこのたとえを通して、何をおっしゃっているのでしょうか。

イエス様は、何より「神様と私たち」との関係が、このたとえの「主人と管理人」の関係と同じなんだということを教えられています。管理人は主人から大切な役割を与えられているのに、その自覚を持つこともなく、好き勝手なことばかりしています。そんな自分の振る舞いに問題意識も持っていません。その一方、色々な人のことを上からばかり見て、誰かを蔑んだり、裁いたりいたりするのです。そんな管理人の姿が私たちに迫ってきます。同時に自分の振る舞いがバレたことをしった管理人の態度も心に迫ってきます。管理人は、まず主人の眼差しを明確に意識し始めました。主人の眼差しを、畏れをもって受け止めていくのです。また、管理人は、自分の中の罪の問題を明確に認識するようになっていきました。そして、「この問題をうやむやにはできない」と真摯に受け止めたのです。その後、管理人は心砕かれ、謙遜になっていきました。そこには打算的な考えもあったかも知れませんが、少なくても彼は、目の前の人々に仕えることになっていったのです。そんな管理人の姿を見ながら思います。私たちが神様を意識し、自分の罪の問題に真摯に向き合う時、心砕かれながら、目の前の一つ一つのこととの向きあい方が変えられ、私たちの生き方や歩みが大きく変えられていくということがあるのではないかと思います。仕える生き方を学んでいくのではないかと思うのです。また、たとえの最後にある「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(ルカ16:10)という言葉も心に残ります。私たちは何より目の前の一つ一つのことに仕えていく歩みに導かれていることを教えられます。

鈴木牧人

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