「渇いている人はだれでも」

ヨハネによる福音書7章37-39節

本日の箇所は、仮庵の祭りの中での出来事です。仮庵の祭りでは特別な儀式が行われていました。それは「水注ぎ」と呼ばれる儀式でした。人々がナツメヤシの枝などの葉っぱをもって神殿にやって来たそうです。そして、祭壇のまわりを回ります。すると、そこに祭司が水差しをもち、近くにあるシロアムの池に行き、水を汲んできて、それを神殿の祭壇に注ぐのです。それが「水注ぎ」でした。出エジプト17章には、荒れ野を旅していたイスラエルの人々が飲み水がなくて、困っていた時、モーセが杖でもって岩を打つと水が湧き出てきたという記述があります。その聖書の出来事を心に刻みながら、水を注いだのです。
本日の箇所でイエス様は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。この時も祭りの中では「水注ぎの儀式」が行なわれていたのだと思います。人々はその儀式を見ながら、その由来となっている聖書の記述…。神様が荒れ野の旅の中で、岩から水を湧き出させてくださった出来事を思い浮かべていたのではないでしょうか。そういう状況の中、イエス様は「わたしを信じるなら、あなたの中にも生きた水が湧き出てくるんだ」とおっしゃったのです。
本日の箇所を読みながら、すごい対比だなと思います。この時は仮庵の祭りの出来事でした。その祭りのもっとも盛大な時に、イエス様は「渇いている人はいますか。その人はだれでも、わたしのところに来なさい」と言われたのです。この言葉を人々はどう思ったでしょうか。「いやいや、今はみんな、お祭りで盛り上がっているところなんだよ。みんな喜びで溢れている。それなのに『渇いている人はだれでも』と言われても…」確かに彼らは、かつてのイスラエルの民のように、荒れ野の旅していたわけではありませんでした。いっぱいの水がほしくて、喉がカラカラになっていたわけではありませんでした。しかしだからと言って、彼らは渇いていなかったのでしょうか。本当に満たされていたのでしょうか。彼らも「渇いている人」だったのと思います。何より心は渇いていたのだと思います。マタイ9:36には、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、(イエス様は)深く憐れまれた」ということが記されています。この時代、多くの人々が、「自分たちはこれからどうしたらいいか分からない」「どこに向かって歩んでいったらいいか分からない」という思いを抱えていました。心に満たされないものを抱え、もがきながら、歩んでいたのです。
そんな彼らを思います時に、「私たちはどうだろうか」と思います。私たちも「渇いている人」だったするということはないでしょうか。もし、私たちが心に渇きを抱えているとするなら、本日の御言葉は、そんな私たちに呼びかけられています。「イエス様のところに来なさい。イエス様を信じるなら、私たちのうちにも生きた水が湧き出てくるんだ」と呼びかけられているのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Translate »