「この人はメシア?」

ヨハネによる福音書7章40-44節

仮庵祭において、イエス様は人々の前でメッセージをしました。そのメッセージを聞いた人々は、様々なことを言いました。「この人は預言者だ」と言う人もいれば、「メシアだ」という人、「いやいやそうではない」という人もいたのです。私たちは、人々の姿を見ながら、何とも滑稽に思えるかも知れません。しかし、私たちが二千年前のこの場所にいたらどうだろうかと思います。彼らと同じように、「イエス様ってメシアなの?」「いやいや違う」と言いながら、戸惑ったりしてしまうんじゃないかと思うのです。そして、本日の箇所に記されている人たちを見る時、「イエス様をメシアだ」と考える人にしても、「いやいやそうではない」と考える人にしても、彼らはそれぞれ、その人たちなりに考え、彼らなりの主張を持っていたんだとも思うのです。
箴言14:15には「未熟な者は何事も信じこむ。熟慮ある人は行く道を見分けようとする」という御言葉があります。私たちは「信じる」ということを大切にします。しかしながら、私たちの信仰の世界は、何事も頭ごなしに信じるというような世界ではありません。時に物事をきちんと熟慮しながら、行くべき道を見分けるということも必要です。「それはおかしい」「それはちがう」ということを判断していくことを大切にしていくのです。ですから、本日の箇所で、イエス様の言われる言葉に対して、あれや、これやと考えている人々の姿というのは、頭ごなしに批判できないと言いますか、当然のことなんじゃないかと思います。言われたことに対して、最初からすぐに受け止められず、戸惑ったり、悩んだり、あれこれ自分たちの中で引っ掛かっている疑問を投げかけたり…。それは当然だと思うのですし、そういうプロセスは大事なんじゃないかとも思うのです。ただ、残念なのは、そんなふうにイエス様の言葉を受け止められなかった人々が、最後までそうだったということです。戸惑ったり、悩んだり、自分たちの中に疑問を持ったり…。それは大事なことかも知れませんが、そういうプロセスを通りながらも、最終的にイエス様に出会えたらいいと思うのです。
ボンヘッファーの本の中に「大胆に考えよ。だが、もっと大胆に信じよ」という言葉があります。目の前の一つ一つのことに対して、それが自明なことではなく、その都度、立ち止まりながら、大胆に考えなさい。問いなさい。悩みなさい。ボンヘッファーはそのように呼びかけているのです。ですが、だからこそより一層大事なことはその中で信じることを忘れないこと、止めないことなんだ…。そのように語るのです。私はこのことは本当に大事なことだと思っています。現在は情報社会と言われ、次から次へ色々なことが進んでいる時代です。そういう中で、ともすると、思考停止になってしまいそうになることがあります。そのような中、物事を何でも鵜呑みにせずに、「本当にそれでいいのか」ということを問うたりすることは大事なのだと思います。ですが、あれこれ考えて、問うだけでは本当の意味で向き合うことができなかったり、そこから一歩を踏み出せなかったりもします。そんな中で信じることが大事なことがあるのです。

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